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[コメント] キューポラのある街(1962/日)

劇映画として見れば満点なのだろう。
Kavalier

畸形化しているとはいえ、スラム物を題材にした時にやってはいけない製作者のパターナリズムが見え隠れする。「『貧乏』と綯い交ぜになった『無知』は悪であり、改善されねばならない」という価値観と言い換えればいいのだろうか。ケン・ローチなら絶対にこのようなことはしないだろう。 作中で提示される「人は、愚かだから貧乏になるのか?、それとも貧乏だから愚かになるのか?」なんてのは、貧乏と愚かをイコールで結びつけた嫌な考え方と思うし、この前提がまったく映画の中で疑われないのは少し気味が悪い。もっと言うなら、これを吉永小百合演じる主人公に学校の作文という形で語らせてしうのは嫌らしい(彼女が発展途上でしでかす無知として描かれるのかと思って見ていたのだが、どうもそういう突っ込みが入らなくてビックリした)。

この畸形化された思想は、例えば、吉永小百合演じる主人公を徹底して美化し賢明に描くことで聖人化していることや、改心の機会が子供にだけ与えられていることに如実に表れている、こういた映画の描き方は正直気に食わない。逆に、「貧乏=無知」価値観を体言している東野英治郎演じる父親を徹底して醜悪に描き観客の笑いの対象にすること(劇場で鑑賞中に本当に、年配の客が声を出して笑うのは不快になる)で、観客に彼を睥睨する視点を用意してしまうのはどうかと思う。概して、大人は駄目人間か、(例え健全な人でも)無力に描かれているし、そういった大人の在り方の対岸に何が本作では配置されているというと、子供の(教育という分野での)自助的な努力である。

高度経済成長時代の、「貧乏や旧来の価値観は悪で発展せにゃいかんぜよ」価値観にケチをつけるのはどうかと思うけど、まあ俺はひっかりを感じた。

ノロノロ走る電車やら水路等を背景に嫌らしいまでに使用して、都市の閉塞間を表現し、ラストに列車の高架橋の上からの俯瞰で街を一望するカットを入れて開放感を表現するという撮影、あるいは室内での小道具を多用した演出等、技法的には満点

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)新町 華終[*] torinoshield[*] けにろん[*]

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