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[コメント] ファインディング・ニモ(2003/米)

映画館で笑っていた子供達のサークルは、子供のころの俺が入っていけなかったそれだった。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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冒頭の「母親の死」の処理でいきなり躓いた。ニモの母親と400個あまりの兄弟の卵は、あの極悪硬骨魚類に喰われてしまったのか? まったく見せられることなく済まされてしまった。三歳の子供も見られるように作られているわけだし、演出的にもその方がスマートだなんて斜に構えた大人の感想が聞こえてきそうだが、そんな御為ごかし、少なくとも子供の頃の俺はまったく信用しなかった。母親の死が一切語られることなく畳み掛けられるテーマパーク・アドベンチャーに終始取り残されたに違いない。

マリーンにとって、ニモが命よりも重い存在である所以は、ニモが自分の遺伝子保存プログラムの一環だったからだろうか? それとも、ニモが失われた妻と子供達の忘れ形見だったからだろうか? 仮に後者であるとすれば、脚本も、演出も明らかに舌っ足らずだ。母親の最後を観る側に刻印しなければ、ニモがマリーンにとっていかに守らなければならない存在であるかが肉感的に伝わってこない。たとえば、こういったドラマを醸成するのに、妻=母親は何も喰われなくったっていい。そこまで見せんでも、ニモの卵を守るようにして死んでいた母親=妻の亡骸――そんなワンカットがあっただけで、マリーンの冒険はぐっと重みを増したはずだ。

ところが、この物語はそんな程度の残酷さえ見せたくなかったようだ。おかげで、終始ジェットコースターを下から眺めているような感じで傍観したまま終わってしまった。父と息子の関係に関してもすこぶる記号的に見えた。何が致命的だったかって、この父子、これっぽっちも似ていないのだ。ああ、ニモはやっぱりマリーンの子なんだなあ――観客をしてこんな風に感嘆せしめるシーンがあって、初めて親子という記号は記号でなくなる。しかし、ニモとマリーンの間には、主人公のステレオタイプな冒険心以外に何の共通項も見当たらなかった。

或いは、これがアメリカのファミリーなのだろうか? 血縁のない家族も多い。片親の子供も多い。だとすれば、母親不在の物語も、似ても似つかない父子像も、それはそれでありなのかもしれない。

ただ、それ以上に、この暗さを徹底的に駆逐しながら、畳み掛け、観る側を思考不全に追いやる物語に寒気を感じるのは事実だ。これがディズニーの典型なのか、それともアメリカの物語の典型なのかは解らないが、一つ言えるのは、物語が絶対的な重きを置くのは常に“未来”であるということだ。それは礼賛とも、信仰ともいえる。或いは、盲目的であるとも。何故なら、“未来”のために現在を謳歌し、生者を尊重し、一方で過去を駆逐し、死者を忘れたがる、執拗なまでに。極端な正と悪の規定、その二局間対立もこの問題と無縁ではない。それは資本主義、産業社会の摂理とも言えるのかも知れないが、そんな体質が見え隠れする物語を俺は笑えない。そんなもの映画には求めてこなかったのだ、子供の頃から。

とはいえ、設定や脇役づくりに感心された部分は多く、退屈はしなかったのも確か。質は高い。だからこそ、ここまであれこれ言いたくなるのだろう。

(評価:★3)

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