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[コメント] 真夜中のカーボーイ(1969/米)

自分の価値を信じ、それが認められないことなどあるはずがないと思ってNYへとやって来るボイドは、まるで「私的言語」を語ろうとしているわたしのよう。
ふみ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 見終わって、言い知れぬ余韻にひたってしまったものの、いったいこの物語をどう理解したらいいのだろうと、とてもとまどってしまいました。しかし「どう理解したらいいのか」ということを考えること自体、何でも自分にとってわかりやすいものに還元してしまわなくては気がすまないという奇妙な「義務感」であり、そうしてわたしにとってわかりやすい見取り図を手に入れて、その物語を手なずけてしまおうとすることは、実際のそれを大いに矮小化してしまうことにちがいありません。

 と言いつつもやっぱり語ってしまうわたしなのでしょーもないことではあるのですが、今はまっている(しかし実はあんまりよくわかっていない)「私的言語」と「言語ゲーム」からこれを見てみたく思ってしまいました。

 カウボーイ・スタイルに身をつつんだジョン・ボイドは、私的言語を語りながらニューヨークへとやって来ます。彼は自分の価値を信じ、それが認められないことなどあるはずがないと思っています。しかしもちろんそれはこの社会のルールではありません。あっという間に失意のどん底につき落とされてしまいます。自身はそれを当然のこととして受け止め、しかもどうしようもないほどの愛着をもって装着してしまっているために、自分をそこからひきはがして見ることなど想像もできない、という意味で、ボイドのカウボーイ・スタイルは私的言語の絶妙な比喩をなしているように思えます。

 そんな彼を受け入れたのは、彼のそうした領域とは別の領域での共通言語をもったダスティン・ホフマンでした。ふたりはともに金も仕事も住むところもない者どうし、という意味で同じ言語を共有したのです。そしてそれをきっかけとして、ボイドは私的言語への愛着から、言語ゲームへと徐々に移動していくのです。

 それを決定的に象徴しているのが、もう物語のほとんど終わりに近くなって、マイアミの地で買ったアロハに着替え、それまで肌身はなさず身につけていたすべて、カウボーイ・ハットにシャツ、ブーツといった彼の言語をまるめてゴミ箱に押し込めるシーンでしょう。そうしたものを捨てた彼は、これからは自分が外で働いて稼ぐ、もうこんな生活はやめにしよう、とホフマンに語りかけますが、すでに彼はこと切れており、美しいビーチを走るバスの中で、どこか宙ぶらりんな印象を残したまま、物語はthe endをむかえます。

 その印象はもしかしたら、私的言語というものの不可能性を悟った後も、その存在まで消えるわけではなく、かえってその大きさを意識してしまうことからくる空虚さ、語れないことの大きさを認めなくてはならない位置に追い込まれたときに感じる、どうしようもなく宙ぶらりんな、じゃあどうしろというのか、といった気分、それを表わしているのではないのか、などと思いました。

(評価:★4)

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