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[コメント] 回路(2001/日)

世界終末をさまよう幽霊たち。(2007.3.18)
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 「死は永遠の孤独」という、死者の語る言葉。個人的に、この台詞は「死後の世界は確かに存在する」という『スペースバンパイア』(トビー・フーパー監督)の台詞への返答ではないか、と解釈している(なお、黒沢清監督のフーパー傾倒は氏の著作『映画はおそろしい』などを参照。ただし、誤解を避けるため、敢えて個人的な経緯を語らせてもらえば、私は黒沢監督を知る以前の幼少時に同作品をテレビで見ていて、数年後黒沢作品に触れた際に少なからずの類似を感じ、直接の言及を跡付け的に確認するに至っただけである)。

 『スペースバンパイア』("Life Force")において「死後の世界」というこの台詞が語られるのは、やはり終末絵巻の最中においてなのだが、ここでこの台詞が印象的なのは映画で描かれる死の連鎖(「バンパイア」という邦題から想像されるように、生命を吸われた者が次の者を襲いまた次の者へという連鎖なのだが)の根底に「死後の世界」への圧倒的な恐怖が据えられるからだ。命を吸われた者は(恐らく生者の想像を絶する何か絶望的な)「死後の世界」の存在を目の当たりにし、そこから逃れるために見境なく生者を襲う。死者たちは死が無や消滅であるからではなく、死後に待ち受ける世界(life after death)があるからこそ恐怖し、生への執着(結果的には死の連鎖)へと突き動かされるのだ。

 ところで、『回路』が不気味なのは、「幽霊」と「世界終末」、という禁じられた組み合わせだ。『回路』は終末が終末たり得ない状況を描き出す。ここでの死の連鎖は虚無によって突き動かされる。通常、死の側が圧倒的な「無」であればこそ「終末」(反転すると「サバイバル」)が起こり得るのだが、この映画において死はあいまいな「永遠の孤独」として語られ、死者は死後もなお現実を平然と徘徊する。現代社会の希薄な生(「死ぬまでの孤独」か?)とこの「永遠の孤独」たる死とは何らかの断絶といより、曖昧な境界上に据えられ、死は生の終わりにではなく、生の地続きにぼんやりと置かれる。この映画で、生者が死者を怖れるのは、彼らが何か我々と別なものになってしまったからでなく、むしろ自分たちとさして変わらぬからだ。かつてトビー・フーパーは「死後の世界」を語らせることで生命への異様な執着を孕んだ終末のスペクタクルを可能にしたが、ここで黒沢清はその「死後の世界」を「永遠の孤独」と読み換えることでスペクタクルを封じてしまう暴挙に出るのである。

 初見時にはどうもこのスペクタクル封じに釈然としない印象を受け、「まるで怖くない」とまで言い切っていたのだが、再見を経てからは、そういう破綻の可能性を引き受けた意欲作としてかなり見直している。この映画は、終末SFホラーの様式を取りながら、「死」の読み換えによって、むしろ「終わらない」そのことの絶望を抉り出しているのである(逆に言うと、「終わる」としても希望はある)。実際、この映画では、「残された時間」として本来濃密な時間となるはずの終末が淡々と時としては省略的に描かれるのだ。

(評価:★4)

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