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[コメント] エグザイル 絆(2006/香港)

ジョニー・トーのフィルム・アナーキズム。『許されざる者』が勢い余って『エスケープ・フロム・L.A.』してしまったかのような、追放されることのユートピア。(2011.11.4)
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 二度目にオープニングを見たときハッとしたが、「扉」の映画。二組の男たちが女のいる家の扉を叩くところから映画が始まり、不吉な暴力の予兆が映画の世界を覆う。この映画の扉は暴力を遮断する場所であると同時に暴力を招き入れる場所だ。ホテルでの殺しの商談は扉によって娼婦の視線から隔てられ、闇医者のもとでの遭遇においては、錠をかけた扉がやがてそこへ訪れる暴力を示唆する。そして最後は、映画の冒頭で扉を叩いたフランシス・ンが女を扉の外へと逃がし、まさに映画の最初に開かれてしまった扉を自らの手で閉じる。四人の男たちは自身を含めた扉の中にいる者すべてを抹殺することで、世界に招き入れられた暴力を封じ込めるのである。物凄い。

 ヌートリアEさんが「女の居場所を否定する」とお書きになられているが、私が抱いたのは、ある意味で逆の感想だった。扉を閉める、というこの終盤での行為を通じて追放されている(というより、自らを世界から追放している)のは、男たちの側ではないだろうか。扉を閉じて振り返るフランシス・ンの爽やかですらある殺気あるいは狂気を帯びた笑顔に、ほかの三人もニヤリと応え、蹴り上げられた缶によって、ここから先「お遊びの時間」と「皆殺しの空間」とが等価であることが告げられる。児戯としか映らない行為のなかに、銃を持った男たちに対する、揺るがない抹殺の意志が込められる。

 物語の舞台は、返還間近のマカオ(1999年)に設定されている。裏の仕事を斡旋するホテルの主人の「今は混乱期だ。返還は目前。誰もが過去の負債を清算したがっている」というセリフが、あるいは返還と同時に退職となる警官の存在が教えるように、この映画の世界は、昨日まであった秩序が明日の秩序でないと誰もが知る、法(law)と無法者(outlaw)、正義と不正義の恣意性があらわとなった、まさしく西部劇的世界なのである。

 アメリカ南北戦争におけるような内戦以後の状況にも通ずる、この秩序の再編期ゆえの敵味方の混乱が対極的な二つのかたちで描かれる。一方には、マフィアのボス二人(サイモン・ヤムラム・カートン)が交す、逆さに差し出された左手での奇妙な握手があり、他方には、圧倒的不利のなかニヒリスティックに黙々と狙撃を繰り返すリッチー・レンに送られる「イエス!」と「いっそ一緒に逃げるか?」がある。一つは、新たな秩序を握ろうとする者たちの結託であり、もう一つは、忠誠心を誓う先を失って行く場所のない「追放された者たち(exiled)」の連帯である(後者は一見、遠慮のないじゃれ合いの押し拡げとして、マッチョな「銃の共同体」とも受け取れそうだが、仲間に加わった途端、このリッチー・レンは銃ではなくハーモニカを握り始め、それゆえにまた母子を連れて船出する役割を担うことが許される)。

 「放逐 Exiled」と銘打たれたこの作品が登場するまで意識しなかったが、娯楽作に徹しながら、ひょっとすると、ジョニー・トーは、たとえば『花火降る夏』のフルーツ・チャンにも劣らず、「植民地」そして「返還」という香港の経験に深く沈潜していたのではないだろうか。いずれにせよ、「組織」という冷徹な論理に対する「仲間」という甘っちょろい論理(『ザ・ミッション』『PTU』)、敵味方を超えて事故のように芽生える奇妙な友情(『暗戦』『ブレイキング・ニュース』)といった彼の作品におなじみの主題がここでも明確にうかがえるだろう。ジョニー・トーはいつでも、「帰属」の地平の彼方を子どものように夢見る、まったくトチ狂った、生粋のアナーキストなのだ。

(評価:★5)

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