[コメント] ミリオンダラー・ベイビー(2004/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
この映画に感じる違和感とは、今論議されているこういう事態が「脳死」の問題であり、この映画のように完全な意識がある場合はもう論議の余地はないのではないか、ということだと思う。
フランキーの行為が是か非かと問われればもちろん非と答える。
ただイーストウッドはここでそのような論議をテーマにこの映画を作ったのではないと考える。これは同じ夢を見る盟友(戦友と言っても良い)が道半ばで倒れた時、我がヒーローは彼の生命とそのプライドについてどう責任が持てるのか、ということをイーストウッドが自身に問うた映画なのではないか。
西部劇、戦争映画、犯罪映画をはじめとする娯楽映画ではこういう場面がよくあるわけです。
周りは敵だらけ、負傷して息も絶え絶えの友を抱えて逃げる二人。
マギー(仮名)「ゲホ!うう、俺はもう駄目だ・・・おまえ一人でも逃げろ!」
フランキー(仮名)「馬鹿野郎、お前を置いていけるか!」
マギー「しかしこのままでは共倒れだ・・・仕方がない。ボカ!」
フランキー(突き飛ばされて)「グエ」
マギー「あばよ、いい夢見させてももらったぜ。」そのまま自爆または崖から身投げ。
フランキー「バカヤロー!」
また、こういう場面もあります。
さあこれから敵をぶっ潰すという時に友が敵の人質になっていた。
敵「くくく、撃てまい。」
マギー「兄貴!俺にかまわずこいつを殺ってくれ!」
フランキー「ううう・・・」
マギー「仕方がない・・・いい夢見させてもらったぜ。」舌を噛んで死ぬ、または敵もろとも自爆。
フランキー「バカヤロー!」
こうして観客の間にヒーローの神話は紡がれていくわけですが、踏み台となった盟友の死は見終わったそばから忘れられていく。
私はその半生を娯楽映画に身を捧げたイーストウッドが、敢えてこういうありがちな場面を現実にありそうな舞台に持ってきて、究極の選択をせまられたとき本当に友を見捨てられるのか、または彼(彼女)の生命とプライドを量りにかけた時(よくある「こんな屈辱的な仕打ちを受けるくらいなら死んだ方がましだ!」という状況)、どちらを取るのか?ということを自分自身を追い詰める形で問おうとしたのではないか。そのような西部劇にあるような運命共同体の中の倫理を優先すれば、法律も、神の言葉すら役に立たない。
そして、これからも楽しい娯楽映画を作りる続けるために、イーストウッドはこの映画を作らなければならなかった。盟友と、誇りとともに死のう、という覚悟があってこそ人を楽しませる映画は作れる、という意思表明でもある。 このような、イースドウッドの映画人生における真摯な態度には心を打たれる。これほど己にきびしい映画人は、彼の他にはジャッキー・チェンくらいであろうか。
それでも、このうような題材にこういう演出は問題ありかもしれない。問題というか、うますぎるのだ。後から考えると、前半のボクシング描写は後半の展開の伏線にしか過ぎず、どうも愛情が感じられない(前半、フランキーとマギーが大した葛藤もなくとんとん拍子に話が進むのでおかしいなあとは思っていた)。マギーの地元でレモンパイを食べて「このまま死んでもいい。」というセリフまで伏線だったのかと思うと、あざと過ぎて嫌味な感じがした。スクラップという語り手を初めとして、セリフ、各場面は、計算が行き届きすぎて、かえって重いテーマを軽くしてしまうような気がする。
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