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[コメント] 日本春歌考(1967/日)

新宿泥棒日記』でも言えるのだが、この当時の大島渚の性に対するアプローチや表現はあまりにも観念的であり、抑圧に対する果敢な挑発は充分に理解できるものの映画として成功しているとは言いがたい。
ぽんしゅう

朝鮮半島にルーツを持つといわれる皇室の数千年に及ぶ性交行為こそ、天皇制を維持するための最も重要な国事行為であるにもかかわらず、紀元節(建国記念日)の復活により、その行為を隠蔽しタブー化することで天皇を神格化する作意こそが、庶民に対する性の抑圧の根源であるという問題提起なのだが・・・。

残念ながらその主張を映画全体から読み取ることは難しい。それは奇しくも大島自身が、映画の中で延々と続けられる歌をめぐるやりとりに耐え切れず、最後には天皇家のルーツを歌にならない唄として念仏のよに唱える小山明子荒木一郎が強引に犯すというシークエンスを準備せざるを得なかったことで自ら証明してしまった。

日本映画の性表現の真の革新は、今村昌平の日々の営みとしての性行為をストレートに描く方法論を継承した神代辰巳ら日活ロマンポルノ作家群の登場まで待たなければならなかった。そして、それに触発されるように『日本春歌考』から10年の歳月を経て大島の『愛のコリーダ』で一つの頂点に達する。

しかし、04年1月13日。またもや東京地裁は「蜜室」という漫画を出版した出版社社長を、その「性描写は露骨かつ詳細で、健全な性風俗に与えた悪影響は軽視できない」という至って理解不能な理由により一年間の投獄(執行猶予三年)に値する犯罪者であると認定してしまった。

時が経ち私達が過去の経緯を忘れた頃を見計らい、こっそり現実を自分達の都合へと引き戻す者が必ず現れる。

(評価:★3)

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