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[コメント] CURE/キュア(1997/日)

どこでもない場所(nowhere)で、だれでもない私(nobody)の、癒しのカーニバル

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







●しかしこの映画が、なによりも恐ろしいのは、一見すると、反体制的・反社会的でありながら、実は『CURE/キュア』そのものが儀式であり遊戯でしかないということではないか。所詮、お遊び。こんな無力な映画、今までなかった。

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●映画の前半部分、ある男がまるで砂漠のような海岸(シラサトカイガン)に立っている。萩原聖人が演じる男の立っているその海岸(≒砂漠)は、資本主義市場社会の末期の黒沢清的隠喩(世界の果て?)だろうが、その稜線を歩いても歩いても‘向こう側’は全く顔を出す気配はなく、結局、カメラのパンもそれ以上ふられることもない。・・・・・・砂漠は砂漠としてひろがるだけで、『ニンゲン合格』で描かれた(家族的)オアシスさえも出てはこない。どこにでもありそうな海岸なのに、どこにあるのか全くわからない場所。それはたとえば、現代社会の都市の特徴のようなもので、その場所固有の特殊性が剥ぎとられてしまい均質化された同じような場所が溢れる資本主義社会である。Nowhere...

さて。俗流フロイト主義者たちの言葉を借りれば、黒沢清の‘抑圧する父’である蓮實重彦は、あるところで次のように記している。

「どこでもない場所は、実は、いたるところにともいいかえてよい。いずれにせよ、それらの両端がどこか確かな世界につながっているかりそめの通過点ではなく、たえず、あらゆる場所で、堅固さそのものを脆いものにする運動こそが作品であり・・・」(『大江健三郎論』)

つまり、どこでもない場所(nowhere)とは、ある「確かさ」そのものを瓦解させんがための一種の武器なのである。もちろん、『CURE/キュア』において唾棄すべき「確かさ」とされるモノとは、萩原聖人が執拗に問いつづける「おまえは誰だ?」から類推できるように、肩書き、名前、‘本当の自分’など、自分というアイデンティティを保障するような「堅固」な防御壁(ATフィールド?)たちに他ならない。「おまえは誰だ?」と問うことで、それらアイデンティティを剥ぎ取り、癒し(CURE)へ導く役割を担う者・萩原聖人は機械のように作動しつづける。「おまえが今、立っている場所はどこでもない。おまえはどこにも存在しない。おまえは誰でもない」。Nobody...

だが、ここで問題なのは、癒しの伝道師の役割を担う萩原聖人さえも、実は誰でもない(Nobody)、たまたま伝道師という役割を担ってるに過ぎない、ということである。したがって、必要なのは、ただ、伝道師という役割のみであり、萩原聖人という人間ではないのだ。その結果、役割だけが役所広司へと継承されるのである。ふたたび蓮實重彦の言葉を借りるなら、「『役割』は交換されうるのであり、たまたまその『役割』を受け持つものは、遊戯の規則と儀式の式次第に従って、あたかもそれが、唯一の正統的な生き方であるかのようにそれを演じつくすまでなのだ。模倣し、反復すること。(中略)作中人物たちの行動に納得しがたいものがあるとしたら、それは彼らの言動が、心理だの性格だのに従ってなされるのではなく、『役割』に対する儀式的、かつ遊戯的な忠実さに支えられたものだからだ」(同上)。「心理」や「人格」という人間のアイデンティティを排し、黙々と(萩原聖人は喋る怪物であるが!)役割を遂行すること。しかも、儀式(×)的、遊戯(×)的に。その瞬間、どこでもない場所(nowhere)とだれでもない私(nobody)との交点において、究極の癒しのカーニバルが開かれる。

(評価:★5)

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