コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 殺し屋1(2001/日=香港=韓国)

垣原の描いたシナリオ(ネタバレ)→
crossage

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







暴力は道理にかなっている必要がない。そこにはただ痛みと恐怖があるのみ。それが圧倒的であればあるほど絶望も深く、そして絶望が深ければ深いほど、それは逆説的に生を輝かせる……。という暴力の「道理」を語ってしまう自己矛盾を、強烈な暴力描写と物語性でねじふせた原作。この道理いらずの監督がその原作をどう料理するのか楽しみにしていたが……。中途半端な物語性や心理描写は、この監督には似合わない。ただ、原作とは異なるラストの作りがちょっと面白かったのでその点について追記してみる。

■垣原の描いたシナリオ

クライマックスのマンション屋上シーン。垣原(浅野忠信)は、自分を殺そうとしてくれないイチ(大森南朋)に絶望し、アイスピックを両耳にぶっさした。聴覚を奪われ、金子の息子に蹴られるイチの泣き声が聞こえなくなったとき、垣原の脳裏にこんなシナリオが思い浮かぶ。立ち上がり、垣原を見据えるイチ。垣原はイチにふっとばされて(あるいは、そのフリをして)、一歩足を踏み外せば奈落の底に転落してしまう危うい足場に着地する。耳の奥には三半規管という人間のバランス感覚をつかさどる器官があり、垣原はその器官をみずから破壊した。それゆえ彼はバランスを取りきれず転落する。

オヤジ(塚本晋也)が垣原の転落死体を確認すると、イチにつけられたはずの額のキズは見あたらず、さらに、イチが殺したと思われていた金子の息子も、実はまだ生きていることを匂わせるショットが挿入される(オヤジが屋上を見上げるショット→未だイチを蹴り続けている子供のショット)。イチが垣原の額にキズをつけるのも、金子の息子が殺されるのも、これは垣原が聴覚を奪われた後の世界での出来事だ。つまりそれらは全て垣原の妄想の産物だった、ということがここで暗示されている。だとすれば実際には、垣原は殺されたのか自殺したのか。そのどちらともつかないような死に方を演じてみせたところで、それにいったいどんな意味があるのか。

まず一般に、[サド/マゾ]関係を[支配/被支配]の関係とするなら、相手の与える命令や苦痛をよろこんで享受し、自分からは何も要求しない、一方的な被支配者の立場に甘んじるというマゾヒストの態度は、自分は加害者ではないという強味によって相手よりも精神的に上位に立っている、そして実は相手(サド側)の支配願望を根っこのところでコントロールしているのは自分の方である、という裏返しの全能感に裏づけられたものであり、ひとくちに[支配する/支配される]関係と言っても、一方が他方を支配する、という単純なそれではなく、そのへんの微妙な心理的駆け引きが介入してくるややこしい関係でもあり、そういう心理ゲームを楽しむこともまたSMプレイの醍醐味であったりすると思う。

このお話の場合だと、[イチ/垣原]という[サド/マゾ]関係よりもむしろ、その関係をじたいをさらに高みから支配しコントロールしようとする第三者であるオヤジと垣原との[支配/被支配]ゲーム、のほうがより前面に押し出されているように見える。イチのもたらす圧倒的な暴力への恐怖と、「自分が殺されるかも知れない」という絶望によって逆説的に生を輝かせたいと垣原は願望しているが、そのイチに垣原を殺させるべく舞台をお膳立てしているのはオヤジである。それはすべてをコントロールしたいと願う「裏返しの全能主義マゾヒスト」たる垣原にとっては我慢がならない。彼はイチとのゲームとオヤジとのゲームの両方に勝利しなければならない。だから彼は、あんなシナリオを描いたのだ。

オヤジが虚脱感におそわれながらマンションを後にするシーンの後に挿入される、風呂場みたいなところで垣原が座りこんでいる意味深なショット。そこで大口をパックリ開ける垣原。あれはだから、自分自身の死すら自らの手でコントロールし、最後の最後でゲームを支配し逆転勝利をはたした勝者の笑みなのだ。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (9 人)blandest muffler&silencer[消音装置][*] HW[*] ごう[*] 1/2(Nibunnnoiti[*] 半熟たまこ[*] ボイス母[*] [*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。