[コメント] ディスタンス(2001/日)
電話と自動車ほど、古来映画において頻繁に用いられてきた小道具はない。「映画的装置」といういかにもな修辞句が用いられるゆえんである。この映画においては、それらの装置は早々にその役割を喪失する。自動車は距離を走破する装置、電話は距離を無効化する装置。その両者の喪失によってはじめて、登場人物たちはふだん意識したことのない《距離》について考えることを強いられる。携帯電話の電波が入らない山中で、自動車を盗難され途方に暮れるというシチュエーションは、そうした《距離》の意識を浮き彫りにするための設定であると同時に、またこの作品自体がいわゆる映画史的な常道から(意図的に?)遠くはなれた地点において撮られようとしたものであることも示している。
しかしまた、手ぶれカメラや即興などを用いたドキュメンタリライクな演出は、「映画」と「現実」との距離をできうるかぎり無効にしようとする方法に見えて、実はその意図とは全く反対の効果を生んでしまうこともある。つまり、「映画」をどれだけ「現実」に近づけようとしても、スクリーンに現前されたものは決して現実と地続きになりえないという決定的な事実、その映画の虚構性をかえって浮き彫りにしてしまう。「映画」と「現実」との決定的な《距離》を逆に見る者に意識させてしまうのだ。
だがこれは方法の失敗と単純に割り切ってしまってもよいものか。もとよりこの作品には、登場人物たちのいだく意識や葛藤を、見る者に共有させようという意図は稀薄なようにも見える。逆に、現実と虚構(映画)との埋めようのない《距離》を浮き彫りにすることによって、登場人物たちと見る者との決定的な《距離》を意識させること。共有や共感ではなく、共有や共感を拒む《距離》を意識させること。むしろそうした読みを誘発するような空気が、この作品には込められているように思える。
日常と非日常、現実と虚構、加害者と被害者、見る者と見られる者、そして私とあなたの距離。《距離》への意識にとらわれた登場人物たち、彼らがとらわれた《距離》について考えようとする私たち、しかしその彼ら自身との《距離》をもまた意識せざるをえない私たち。距離についてのさまざまな意識が錯綜し、さまざまな問いかけが浮かび上がっては消えてゆく。
たとえば「あなたの人生はほんとうなんですか?」という問いに「うるせえよバカヤロウ」としかこたえることのできなかった寺島進の情けなさや、焚き火を囲んでなされるARATAと伊勢谷友介の「神様」についての談義の稚拙さについて。その情けなさや稚拙さに対して抱くもどかしい感覚は、だが第三者的な気楽さでブラウン管の向こうの「出来事」を見ていたときに抱いていた感覚と同じものなのではないか?云々。見る者の意識の持ちようによって、さまざまな問いかけを導き出すことのできる、またそれこそを見る者に求める、これはそういう作品なのだろうと思う。
もとよりたった一つの「解答」などというものは存在しないし、また性急に求めるべきものでもない。たった一つの「解答」を求めようとする欲望があの「事件」を生んだとも言えるのだから。解答ではなく問いかけ。共感ではなく意識。たとえそれが稚拙なものであれ、そこからしか私たちの「現実」は始まらないのだと、そんな切実な思いを私は感じとった。作品としての試み自体が成功しているかはともかく、その切実さには心を動かされる。
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