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[コメント] 麗しのサブリナ(1954/米)

外見の美しさに気付かなかった男達と心の美しさに気付かなかった女の物語。
ペペロンチーノ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







ビリー・ワイルダー作品の中でイマイチぱっとしない印象だった映画。あの頃は若かったね。十数年ぶりに観て、成熟した大人達の恋のさや当て(つばぜり合いではない)を見事に描いているんだと遅まきながら気付いた。俺も気付かなかったというオチ。

この映画には2パターンの男女が登場する。 男1「もてもてプレイボーイ」、男2「堅物冷徹仕事人間」。 女1「洗練された都会の女性」、女2「垢抜けない小娘」。

男1(美男)=女1(美女)がくっつく話ではクソ面白くない。

男2(醜男)=女2(醜女・・・彼女をこう呼ぶには語弊があるが)は、今でこそ“アリ”の映画もあるが、当時はもちろんのこと今でもハリウッドでは“あり得ない”組み合わせ。

ここで面白い話になるのは、美女と野獣型の男2=女1か、この何十年後に生まれる少女漫画の典型的パターンでもある女2=男1のいずれか。 この映画は、女1と女2が同一人物であることで、この両パターンをまとめてやってのける。 そういった意味においてもボギーである意味がある。 (ついでに言えば、オードリー映画の恋のお相手は、ほとんどがオジサンばかりだ)

「骨董品ね(レコードが)」「俺が?」

ちょっとムッとしたように聞き返すボガード。自分が歳くったから分かる。男と女を意識していなければ(そして年齢差を気にしていなければ)こんな言い方はしない。「そうやがな。レコードもワイもええ年齢でんがな」(何故関西弁?)なんてことを言ってしまうとこだ。 これは物語中盤の台詞だが、実は物語中盤にして、否、それ以前から「好き」になっているのだ。

「もうライナスと二人で食事に行きたくない」「抱きしめて」「もっと」とデイビットに言うサブリナ。小説なら地の文が書かれるだろう。 「抱かれれば忘れていた気持ちが蘇ってくると思った。私はこの人を愛している。愛していると思い込もうとした。そう思うことで私はここまで来たのだから。だが、私は気付いてしまった。私の気持ちはもうあの人に傾いている。彼の抱擁がかえって、あいまいな私の気持ちを確信に近づけるものにしていった。」

「48年(だったかな?)も夫婦やってて信用できんのか」という葉巻をめぐる両親の会話も、男と女の関係の象徴として面白い。 自分の気持ちに気付かない。あるいは気付いているのに気付かないふり。この映画は、そういった大人の恋の微妙なやりとりが、実に見事に描かれていることに、今更ながら気付いたのだ。

後々のラブコメの元祖とも言える本作で、後に忘れられがちな優れている点がある。かなり強引な展開にも関わらず(ビリー・ワイルダーの特徴でもあるが)、誰かの不幸の上に成り立つ「幸福」はハッピー・エンドではないという事を忘れていない点だ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (5 人)トシ[*] スパルタのキツネ[*] 甘崎庵[*] けにろん[*] ぱーこ

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