[コメント] モスラ対ゴジラ(1964/日)
敬愛する本多猪四郎監督の作品を語るのに、『天空の城ラピュタ』やジブリ作品を引き合いに出す必然性は個人的なものなのですが、まあ話半分と思って聞いてください。
本多作品群の中で最も困惑するのがこの一本だ。何故かというと、話が大変いびつなのだ。人間不信という面倒極まりない問題を扱いながら、一方で辟易してしまうぐらいの安直な結論を述べてしまっている。また一方では、恐ろしくリアルな人間のエゴと暴力を描いてしまっている。
思春期、特撮映画の限界は、自分にとって空想世界の地平線だった。怪獣映画の限界を見つけ失望するたびに、信奉するものの限界と己の限界を知った。信じたいものを相対化しなければならない落胆の中で、現実をしぶしぶ受け入れることに何とか馴れていった。気恥ずかしい、言うにも及ばない話だが、このファンタージエンの相対化=自己の相対化は大人になる過程で絶対に必要なことだ。
ところが80年代に、宮崎駿という巨人が台頭した。特に『天空の城ラピュタ』の実によくできた世界観は、子供の感覚では欠陥を見出すのが非常に困難で、個人的には数日もやもやした感覚が尾を引いたのを覚えている。あまりにも完璧で、綺麗で、現実が褪せて見えた。抜け出したくない…はっきりとそう思えた。
そういうものにだけ囲まれていたいという願望は今だってなくはない。けれども現実は、なかんずく人間はときに汚く、醜く、みじめで、矛盾に満ちて、破綻している。自分だってそうだ。そのことを、子供はいつか認め、受け入れなければならない。大人が見せるきれい事の裏側、偽善と傲慢を。リアルなエゴと暴力の醜さを。ムスカの畏怖堂々たる絶対悪ではなく、熊山と虎畑のみすぼらしい日常的な悪を。この『モスラ対ゴジラ』が内包している歪さそのままを。
もちろん、いかに本多監督マンセーの自分であっても、監督が意図してこのような歪さを体現したなどと言い出す気はない。子供をターゲットにした最初のゴジラである当作品は、子供向けになりきれない大人のリアルが出てしまった映画、本多監督も含め製作陣の見識が中途半端であった結果に過ぎない。愚作と断じられがちな『オール怪獣大進撃』の方が、実はよっぽど完成された“子供向け”であったことを、自分としては強調したい。ただ、子供にこの二本を選ばせたら、おそらく大多数が『モスラ対ゴジラ』の方を選ぶだろう。彼らは、大人がいかに気遣ってくれるかではなく、自分自身がいかに可能性を見出せるかで選ぶのだから。しかし、そんな子供達に対し、この作品はいずれその可能性の限界を臆面もなく露呈する。そして、彼らをしてファンタージエンとの距離を測らしめるだろう。
特撮――相対化されてしまうファンタージエン。背伸びせずにはいられないティーンエイジにとっては、往年の特撮はださい代物だった。でも彼らは特撮の奥行きをまだ知らない。だささそのものを相対化できた時に見えてくるものがあることを。現実も、虚構も、美しさも、醜悪さも、かっこよさも、だささも、全てを内包してなお継続する文化の意味を。とことん現実である振りをし、虚構であることをさらけ出すまいとする虚構よりも、虚構であることを包み隠さず、なお現実に憚らない虚構を私は愛したい。
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