[コメント] 空白(2021/日)
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これはもう断言していいかと思うけど、正義が叫ばれる時には必ずその叫んでいる人のエゴが混ざる。その人の思う「かくあるべき」の「かく」が、世の中にたくさんある規範のうち、確信的か無自覚かにかかわらず、その人が自分で選んでいるものだからだ。古田新太の行為は徹頭徹尾「義憤」だ。正しくは娘を失った取り返しのつかない空白を埋めるための義憤だ。娘が死んだという結果に対し、そこに関わった人々に向けられているのは、(俺の思う)正義がなされていないじゃないか、という裁きの目だ。
怒りや憎しみをどれだけ行使しても何の解決にもならない、大事なのは優しさであり赦しなのだ、ヘイトではなくもっとラブを、というふうに読み取るのも間違いではないけど、それだけがテーマではないことは、寺島しのぶ演じるパートのおばさんの正義の在り方を、古田新太の父親の対立軸として描いていることで明らかだ。「他人のために」の中に己の欲望を忍ばせるタイプの人間の棲息もだいぶ周知されるようになってきたけど、「若い店長をいやらしい目で見ている」という罪にまで言及していて面白いと思った。松坂桃李の店長が、古田新太の父親の行為に抗議しないのは、元々の性格もあるのかもだが、自分の怠惰が原因で父親を死なせてしまったという悔恨から、「自分のせいで人が死ぬ」という行為に殉じて、自分は抗議しないことをもって、やはり自分の正義を通しているのだと思う。
正義とかルールは人間が社会を営むために必要なものだけど、正義には「裁き」という概念がつきまとう。この作品は、社会が複雑化した中で「正義」だけで、人格を断じたり社会を営んでしまうことの危うさを描いているのだと思う。人間がずっと原始の頃のヒトだった時、今の正義やルールなんか存在しなかったはずだ。正義やルールというものは、あくまでその社会に準拠しているだけのものに過ぎないのであり、人と人が共生していくために害になることさえあるというのは、戦争中に叫ばれる正義やルールのありようを見ても明らかだ。
正義とは生物の感情じゃない。感情のやりとりをしている、あるいはすべきところに正義がもちこまれることの危うさを、本作は言っているように思ったのだった。
焼き鳥弁当のファンだったと声がけしてきた兄ちゃんのエピソードと、イルカの形の雲の下の海原に(きっとそうだろうけど)父の漁船を描き足していた娘の油絵のエピソードは、いやらしい言い方だけどうまい演出だと思った。後者の絵画の中のその父の漁船の描かれ方の小ささが、ただの実写の写生ではあるのだろうけど、父との距離感をあらわす(近くにいると怖いけど遠くからなら慕える)心象風景であるところに切なさを感じる。父を本当に拒絶していたならわざわざそこに父の船を描くことはあり得ない、そのことは絵を少しだけかじった父親にはわかったはずだ。店長も父親も自分の貫いた正義(行動規範)の、何もかもが間違っていたわけではないという救いを描くことで、2人の行動の間違っていたかも知れないがそこでの邪心の無さと、パートのおばちゃんの善意に潜む邪心とを対照的に見せていると思う。
本作の主人公や、背景としてのみ描かれているに過ぎないが、さまざまに声をあげる「大衆」の正義のありようを見て思うのは、どうして最近の正義感はこうまで荒ぶりモンスター化するのか、ということだ。思うに「オレの思っているとおりの社会になってないじゃないか」というイライラを抱えている人がそれだけ多くいるからかも知れない。怪物はその社会の歪みの産物だという説にしたがえば、それだけ公正な社会がないがしろにされているということなんだろうな。
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