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[コメント] ウィーアーリトルゾンビーズ(2018/日)

画も音もひっくるめて過剰かつ断片的なおぼつかなさが思春期の心象を象徴する。とは言え、おもちゃ箱をひっくり返しながらも“希望”に向かう姿勢に地に足の着いた骨太さがあるのは、ディフォルメしつつも現実に対して嘘をつかない誠実さが底流にあるからだろう。
ぽんしゅう

自分たちの労力は最大限に削減し、子育をツールに託すヒカリ(二宮慶多)の両親の「何でも買い与える主義」とは、この20年あまり美徳の座にに君臨する“生産性”第一主義のことだ。いじめられるよりは、いじめるほうでいて欲しいというイクコ(中島セナ)の父親の溺愛が生み出した「無差別恋愛」とは、“愛はすべてを救う”という呪文に酔いしれ他者の存在を欠落させてしまった自己陶酔的な情緒(感動)至上主義のことだ。「自分で決めることが出来る人が強いんだ。父さんは何も自分で決めてこなかったから弱いんだ」と、臆面もなく息子に語るイシ(水野哲志)の父親とは、自己責任論の同調圧力に屈したふうを装うことで責任を放棄する真正の無責任者だ。そして、いまだに古典的な“貧乏スパイラル”に苦しむタケムラ(奥村門土)一家とは、資本主義とマルクス主義の葛藤(一億総中流化の夢)を経てもなお構造的に消滅しない経済蟻地獄の犠牲者だ。

長久允監督は、こんな現実の中で「殺したのは誰だ!」と犯人捜しをすることの虚しさを察している。だからゲーム世界に擬した虚構性に安易に「行き詰った現実」を仮託したりしない。といって、ゲーム世界に擬した虚構性の「現実への浸食」に媚びるわけでもない。エンターテインメント(ゲーム)化された「現実」に逃げ込むことなく、すでに、そこに存在してるものとして「現実」を咀嚼する。決して「現実」を否定しない。だからこそ、語られる“希望”もしっかりと地に足がついているのだと思う。

長久允監督には、大林宣彦市川準中島哲也のように、CM界から何年かに一度あらわれて、映像作家として映画界に独自のスタンスを確立してしまうオンリーワンの“才気”を感じた。

(評価:★5)

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