[コメント] 僕はイエス様が嫌い(2019/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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千円札は幾重にも折り畳まれて角力取りの型を象らされるが、これをして青い花は購われる。中途まで書きつけられた弔辞はすべて字消しで抹消されるが、葬儀ではつつがなく読み終えられる(打消し線を殴り書くでも紙を丸め捨てるでもなく、律義に字消しを用いるあたりに佐藤結良くんのキャラクタが表現されてもいる)。すなわち「紙」は損なわれるが、それでも機能する。果たして『僕はイエス様が嫌い』における「神」もそうだろうか。
むろん、上では意図的にひとつ云い漏らされている。障子紙である。障子紙は、冒頭で二瓶鮫一の手によって穴をあけられるが、のちに貼り直される。ところが最終段、結良くんによって再び穴をあけられてしまう。どうやらここで障子紙は、むしろ損なわれることによってこそ障子紙本来の機能を超越する。その穴から覗き見られる光景をどのように名づけるにせよ、それは(ごく控えめに云っても)神の領域に存する何かであると映画は仄めかすだろう。
以下、映画におけるドローン撮影に関して、現時点での個人的な整理。やはり『僕はイエス様が嫌い』ラストカットのドローン撮影には小さからぬ拒否感・抵抗感を拭えない。この映画が全般に立派な撮影を誇り、件のラストカットにしても時宜を得た撮り方であることは認めるにやぶさかでないが、これはどうしたことだろう。
まず、このようなあまりに滑らかなカメラの移動ぶりを生理として好まない、というのがあるかもしらない。いまだステディカム撮影に対して違和感を覚えてしまうこととも通ずる。しかし生理であるからして、これは大多数の観客と共有されるものでもないだろうが、いっそう根本的でもある。
もうひとつに、慣れ、すなわち経験量の問題もあるだろう。従来のヘリコ空撮やクレーンの可動範囲における移動撮影であればまったく可とする私の眼-脳は、どうもこのラストカットのような長距離・円滑・垂直・上昇カメラ移動によって得られた画面を、まず何らかのコンピュータ処理が施された動画として誤って知覚し、興を醒ましてしまうようだ。したがってこれは、より多くのドローン撮影画面に触れることによって軽減される類のものかもしらない。
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