[コメント] レヴェナント:蘇えりし者(2015/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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以前『トランスフォーマー』でIMAXを初めて観た時、たたみかけるように小刻みなカット割りに目が追いついていかず、かえって没入感が損なわれたのを経験して、IMAXで見せたいと思ったら従来の映画の文法はもう当てはまらないなぁ、言うたらタルコフスキーの映画や万博なんかの自然ドキュメンタリーみたいな、静止画を長々映しているようなほうが映(ば)えるなぁ、と思ったのだが、本作は、ああ、まさにこれこれ、という感じだった。
ちょっと話がそれるけど、手塚治虫のマンガを読み返すと、意図的にロングやアップ、ローアングルや俯瞰など、いわゆる「映画的」表現を積極的に取り入れ、コママンガに躍動感をもたらして、私なんかはこれがかっこいいと思うわけだけど、近年の、人物のバストショットが紙面の大半を占め、人物のモノローグに焦点の当てられたマンガになれた若い子たちは、手塚のこういう多視点的なカメラアングルに思い入れがないものなのかも知れない。つまり文法が変化しているということだ。
本作の冒頭のアクションシーンを見てて思ったのは、とても「ゲーム的」だなということ。作り手も読み手も「映画育ち」ではなく「ゲーム育ち」が増えてきているのかも、と思った。突然ネィティブに襲撃されて乱闘シーンに巻き込まれる場面のカメラワークは紛れもなく「プレイヤー1」の視点だろう。カメラが右に左に時に360度回転し、時には左右方向でなく空を見上げたりするのは「カメラの存在を感じさせるからNGな撮影方法」なのではなく、むしろVR的な没入感としては「自然な」視点なんだなあと思った。この際、広角レンズの歪みの不自然さよりも、カット割りのほうが不自然ということなのかも知れない。手持ちカメラによるアクションシーンのライブ感の演出で、キューブリックのステディカムを使用した場面や『プライベート・ライアン』の従軍カメラ風でも、同じようなことをやっているのに、まるで印象が違うのは、キューブリックやスピルバーグはゲーム育ちではなくカメラ育ちだからだろう。
本作が『ゼロ・グラビティ』に連なるVR的没入型を意図として制作されているのは明確だと思う。このプロットの少なさで2時間40分を見せようとするのだから。そうなってくると鶏が先か卵が先かだけど、ハンディカメラで照明のセッティングをあまり必要としない(360度カメラをふるために)高感度カメラが必要になってくる、あるいは6Kデジタルシネマ用カメラが開発されたことで、こういう企画が持ち上がったのかも知れない。6KデジタルでRAW撮影ができるなら、暗部の階調もあとから現像で掘り起こせるし、逆に雪のような真っ白部分のハイライト調整も可能だ。松明の明かりだけでの夜間行軍している俳優の表情がどの程度撮れているか、あまり撮影現場で心配することもないだろう。とにかくロケ地の過酷な環境さえガマンすれば後はカメラが撮ってくれる、そういう現場だったのだろう。おかげでマジックアワーのような光量不足の風景や、針葉樹の葉の上に積もっている細かな雪の粒子が隅々までクリアに撮れていて、これにはフィルム至上主義の人たちもさすがにやられたと思ったのではないだろうか。
勝ち負けでも良し悪しでもなく、文法の変化は常に起こり続けることだ。文法はあくまでも手段で、大事なのは何を表現するかという意図なのだろうが、その文法はテクノロジーの発展と、作り手と同時に読み手の「出自」に影響されてくる。例えばこれから『デルス・ウザーラ』を撮るのだとしたら、本作の手法だとどうなるだろうか、やはり黒澤のスタイルのほうが良かったよね、になるのだろうか、映画を見て育った映画好き世代と、VRやCGに馴染みのある一方で、写真の世界なんかでは、かなりの数の若い子が「フィルム」の質感に魅了されているといった世代が、今後映画をどう感じるようになるのだろうか、本来「カメラ」という媒介が存在しないアニメやCGでひたすらスマホのカメラで「アングル」を探していたアングル信奉者庵野秀明のような作家はこれから出てくるのだろうか、それを求めるアニメファンはこれからも居続けるのだろうか、そんなことを思った。
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