[コメント] 太陽の墓場(1960/日)
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映画においても貧乏自慢競争というのがあるが、本作はその有力な優勝候補。オーシマ新左翼思想は何も語られないしそのような人物も登場しない。最下層を描くのは彼等にとっての必然であり、左翼がいないと世の中こんな無茶ですよという含意もあるのだろう。それ以外にらしい観念性はなく、悲惨リアリズムに徹している。
ヤクザ方面は悲惨リアリズムで染め上げられている。これは画期的で、女を強姦して(口に泥突っ込む処は目を背けてしまう)娼婦にするなんて手口の詳述は、ヤクザ映画の諸作より先行している。この時点で深作は監督デヴューもしていない。『現代やくざ』シリーズなど、本作に情を付け加えたようなものであり、東映も日活も本作の基準のうえに何を盛り込むかを競ったと捉えるのが妥当と思う(石井輝男だけは例外)。後年、オーシマは講演会の質疑で客席からヤクザ映画は撮らないのかと問われてバカヤローと怒鳴ったらしいが、そりゃ撮る必要はない。彼の方が元祖だもの。
一方、ドヤ街方面は小沢栄太郎のブラックジョークもあり、戦後の貧乏映画のノリを相当に踏襲している。ここに居並ぶ名優たちは戦後15年間、最下層の生活を様々に演じてきたのだった。しかし、過去作との差異、高度成長の入口であるこの時点での演出の在り様について、さすが彼等は自覚的と見える。特に北林谷栄が演出意図の理解度に優れていて、脱落したような表情がとても印象的。左卜全も素晴らしく、川津祐介の骸を川に投げ込む件は、この昭和の大名優の何でも見通す眼が捉えた最も悲惨な光景だろう。
ただ音楽は嫌い。アランフェス協奏曲のモロパクリなギターが実に辛気臭く、演歌的な詠嘆に全体を流している。21世紀の邦画で一番進歩したのは音楽のセンスだと思うのだが、本作などその反面教師の典型例だ。佐々木功が野原で友達殺すときにだけ陽気なチャチャチャのメロディが対位法的に使われ印象的だが、全部これに差し替えるべきじゃなかったか。その方がこの世界の悲惨が際立っただろうと思う。
『(秘)色情めす市場』に先行する釜ヶ崎ロケが素晴らしい。アパッチ族が闊歩した今はなき大阪砲兵工廠跡地までが記録されており、それだけでも価値高い。この背景がリアルなのが成功の第一要因と思う。ただ、港に隣接するセットは釜ヶ崎ではないようだ(釜ヶ崎に海はない)。あの港はどこになるのだろう。
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