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[コメント] アジアの純真(2009/日)

「イデオロギッシュ」なる断罪を憎悪に震える身で背負う、観念過剰の逆説的リアリズム。こすれるガラス瓶の殺意、ロード・ムービーしない自転車、想念の海。私には血の通った光景。特攻する潜水艦のような閉所恐怖症的カラオケボックスに笑う。(2011.10.30)
HW

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 いや、その不意打ちは、むしろ宇宙船?

 最初「怒り」と書いて、どこか間違えた気がした。「憎悪」が込められている映画だ。憎悪に対して嫌悪や冷笑、あるいは「良識」で応える人々の言葉を私は真剣なものと受け取ることができない。この映画を拒絶するのは、あまりにも簡単だ。私はこの事実に戸惑う。稚拙で乱暴で目もあてられない。あるいは、お好みのレッテルを貼ればいい。「反日」とか、「配慮が欠ける」とか。しかし、この映画がなにより憎悪をむき出しにしているのは、変わらない、変わる必要もない、変わらないほうがいい、と居直るそのあきれるほどの簡単さに対して、なのではないか。正直、こういう映画が絶対になければいけなかった、とは必ずしも思わないし、下手に敬遠されるよりは批判を受けるべきとも考えるが、不満や苛立ちも含め、見たことはよかったと思う。こんな映画があってもいい。

 まず、ごく私的な感想。見始めてすぐに、2002年に17歳の高校生、という映画の主人公たちと自分がまるっきり同世代であることに気がついた(演じる二人は、もっと若い)。『GO』(2001年)という「在日」を主題としたボーイ・ミーツ・ガール映画が評判だったころ。テレビの鎮座する食卓で両親が「かわいそう」「無茶苦茶な国」と語るのを耳にしたころ。嫉妬混じりに覚える、テロリズムの言い知れない魅惑。自分が高校生のころに夢想していたかもしれない物語と再会したような奇妙な感覚を覚える(というほど、精神年齢が成長していないことにも気づかされたが) 。

 しかし、この馴染み深さは、たまたまの世代的な印象や、私個人の勝手な感情移入なのだろうか。一見矛盾して聞こえるかもしれないが、私は最後までこの映画の世界にうまく集中することができなかった。ある意味、この映画にどっぷり浸れるような「映画の世界」は初めから用意されていないのだろう。映画であることを否応なく意識させるがゆえに、かえって客観視を許さず、見る側の記憶をあれこれと挑発しているかのようだ。

 この映画は、私の想像力の域を出ようとしない。『BORDER LINE』のような自転車の少年(しかし、この旅は誰かの人生と交差したりなどしない)。黒沢清の『大いなる幻影』の浜辺から出発してしまったような、海の向こうの戦争(しかし、銃と核兵器の両極のみの、「夢がありすぎる」かつ「夢がない」戦場)。出会いから遅れて最後になって手をつなぐ、『ファイト・クラブ』のようなボーイ・ミーツ・ガール(しかし、その先に何の物語もない)。絶望的なほどに私の想像力を超えて進んでくれないそのことに、大いに不満を感じつつも、見慣れた心象風景のパッチワークの気恥ずかしさや不細工さを、リアルなものとも思う。

 以下、細かい余談。重箱の隅をつついて勝ち誇るような真似はしたくないが、されるのを見たくもないので、気にかかった点をやり過ごさずに、敢えて二点だけ。

 埋まっていたマスタード・ガスを少女は「中国人や朝鮮人を殺すために」作られたものだと語る。登場人物の主観という留保がつくので、言いがかりをどうこうつけるのも、映画の見方を知らずに、作中の人物・出来事と作り手とをごっちゃにするだけの野暮なのだが、大日本帝国の「臣民」であった朝鮮人について戦争の敵とされていたかのように語らせるのはややこしいだけだろう。そもそも、「誰か」を殺すためにそれが作られた、という言い方そのものが、この映画の全体の内容と不釣合いにも思えるのだが、どうか。

 もう一点。北朝鮮に弟を拉致され、戦争も辞さないとばかりに憤激する拉致被害者家族の講演者。むやみに名前を記すのは避けたいが、当時メディアを目にしていた人ならば、少なからずモデルにされたであろう人物の想像はつく。たぶん脚本の書かれた時点では強硬な姿勢を印象づけていたのであろう、私の思い当たるその方は、しかし、近年は当事者として取り組むなかで抱き始めた拉致問題をめぐる日本の動向に対する疑念を提起し、再考を促す姿勢で知られている。もちろんスタンスどうこうで、映画のなかで殺されていい人物と殺されてはいけない人物とがいる、とはまったく思わないし(それはゾッとする考え方だ)、繰り返せば、作中の出来事をそのまま作り手の倫理観と決め付けるのは的外れ甚だしいが、型通りの戯画化といい、この人物の造形全体、あまり映画的工夫も感じられず、気持ちのいいものではなかった。結局のところ、テロが描かれ、携帯、テレビ、新聞、ビデオといったものが画面に登場するわりには、「メディア」の扱われ方がルーズなのかもしれない。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)けにろん[*] ぽんしゅう[*]

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