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[コメント] キッズ・オールライト(2010/米)

その類稀なルックスが却って役柄の幅を狭めてしまわぬかと懸念されたミア・ワシコウスカだが、至って普通のお嬢さんを実に魅力的に演じている。私は『アリス・イン・ワンダーランド』よりも、表情の変化ぶりを見ているだけで愉しいこちらのほうを買う。ジュリアン・ムーアもよい年齢の重ね方をしている。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







出来事はワシコウスカの大学進学を前にした夏季休業期間に終始する。また、一家の経済をもっぱら支えているはずのアネット・ベニングが仕事をしているシーンはひとつもない。この二点は、この映画が「公/私的時間」をめぐる物語であることをほのめかしている。ここで公的時間とは職場ないし学校の時間、私的時間とは家庭を中心としたそれ以外の時間とひとまずは云ってよい。この定義に基づけば、ベニングの就業の模様を描いたシーンがなく、またムーアが失業している現在、この一家は公的時間をいっさい持っていないことになる。したがって物語の転換点と呼ぶにふさわしいのは、ワシコウスカとジョシュ・ハッチャーソンの血縁上の父親としてマーク・ラファロが登場すること以上に、ムーアの起業である。彼女が事業を起こすことで初めて映画に公的時間が導入される。そしてこれよりしばらく後、ベニングはムーアとラファロの密通を知って激怒するのだが、このきわめて一般的と云ってもよい反応の一因は、彼らの情事という最も私的な行為が公的時間内において重ねられていたことにもないだろうか。ムーアとベニングの出逢いもまた救急搬送された患者と医師として、すなわち公的時間内にその端を発していたのだ。不義そのものや相手が男であったこともむろんあるだろうが、公/私の関係という点から眺めたとき、かつての自分たちをなぞるかのような行いであったがゆえにベニングはムーアとラファロの情交をいっそう許せない。

さて、以上を前提として私が触れたいのはラストシーンについてである。大学入学を控えてワシコウスカが一家を離れるこのシーンは、物語にとってとりあえず収まりのよい着地点として導き出されたにすぎないものなのだろうか。ここでとりわけ情感たっぷりに撮り上げられた画面群を見る限り、むしろこのシーンこそがこの映画の主眼ではないか、という素朴な感想が上に繰り広げた論の発端である。一人暮らしであろうが寮生活であろうが、一度家族を離れれば、ほとんど常に共有していた私的時間の在り方は否応なしに変容する。むろんよくある風景にすぎないし、また映画においても幾度も取り上げられてきたものだろうが、『キッズ・オールライト』はそこに伴う悲喜こもごもの表情こそを最もよく描いている。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)KEI[*] 緑雨[*] 煽尼采

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