[コメント] 脳内ニューヨーク(2008/米)
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ここで「一貫した映画の感情」とは、安直な物云いになることを辞さずに言葉にすれば、「死」の空気だ。映画が終始描いていた「病」と「老い」。その行き着く先としての死。あからさまに画一的に撮られた葬儀シーンの回数の多さがまず端的にそれを物語っているだろう(あるいは、「目覚め」に始まり「死んで」の一語で幕を閉じる構成にしても)。フィリップ・シーモア・ホフマンが目指す演劇は「本物のニューヨークのようにあらゆる人生の事柄がある」ものらしいが、実際の映画/劇中劇は死と対をなすべき「誕生」の挿話を欠いている(ホフマンとミシェル・ウィリアムズの間にもうけられた娘の誕生、およびそこにあるべき祝福の瞬間はあっけなく省略されている)。「成長」は生き別れになったホフマンの娘のものとして登場するが、これもまた彼にとっては忌むべきものとしてしかない。また男女の交わりが演じられてもそこからは生の歓びが欠落している。劇中劇は人生における何もかもが詰まった舞台を目指していたはずだが、人生というものが当然内包しているだろうと私たちが素朴に信じるポジティヴな事柄たちは決してそこに現れない。映画は不吉な死の影に魅入られている。
それでは、ここには絶望しかないのだろうか。必ずしもそうではないはずだ。より正確に云えば、「そうではない」と信じたいホフマンの足掻きが、ある。劇中劇を際限なく拡大することで事象の因果関係に混乱をもたらすというこの物語の構造は、まずその足掻きぶりを観客の眼前に浮上させるものとして採用されている。そして演出家のまなざしはその足掻きさえも無価値であるとは断じていない。私もまた足掻きとしての人生を(無理矢理にでも)肯定したい。と云ってみることにする。
さて、細部について言及するならば、サマンサ・モートンの「燃えつづける家」やホフマンの娘の「持ち主の手元を離れても綴られつづける日記」といった不可思議な着想が気に入った。着想自体というよりも、一般的な映画であれば非-現実のものとして扱われるだろうそうした事柄が、半-現実とでも云うべき存在の仕方で処理されているところに興味を覚える。世界の終末を示唆する(?)ラストシーンのイメージにも『回路』好きの私としてはそそられるものがある。それらも含め、マーク・フリードバーグの意欲的な仕事がこの映画の大きな美点だ。
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