[コメント] 母なる証明(2009/韓国)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
信念(母性)を嘲笑う息子(運命)。息子の白痴的な笑いや「ゴルフクラブの誤認」が象徴する「笑い」とはなにか。ポン・ジュノ作品における「笑い(笑う当事者と笑える事象)」とは、単純に「ユーモアセンス」という括りでは把握しきれない。エンターテイメントであらしめようとする媚びでもない。「ブラックユーモア」とも違う。その「笑える事象」は、運命と対峙する「信念」への「嘲笑」だ。
『殺人の追憶』にも白痴的な容疑者が二名登場し、彼らのにやにやと卑俗ににやけた滑稽な行動と言動を起点にして刑事達はおもちゃのように翻弄されていた。さらに第三の容疑者は理知的な「冷笑」をもって刑事達を迎える。『グエムル』においてはさらに直接的だ。救われるべき主人公の娘がついに絶命し、その遺体を前にして怒りと哀しみを爆発させる家族の一人が火炎瓶を怪物に投げつけるのだが、ことごとくが水道橋の柱に阻まれた末に、「運命」のメタファーである怪物が歯を剥き出して咆哮する。これが信念への「嘲笑」に見えてくるのである。さらに火炎瓶の最後の一本が手から滑り落ちるというおまけがつく。これを笑った方も多いかもしれないが、完全にこれ、「嘲笑」ですよね。
実際わたくし、『グエムル』の火炎瓶のシーンでは本気でぼろぼろ涙がこぼれました。音楽もいいんだよな、ポン・ジュノは。
話が脱線した。要するにポン・ジュノの「笑い」は運命論に即して実に残酷だ。勘違いしてはならない。
運命の不条理と信念の戦いを描いて、ポン・ジュノが簡明な「勝利」を当事者にもたらしたことはない。敗北(『殺人の追憶』)か、予定されるべき結果の変質(『グエムル』)か、いずれかだ。
本作では、運命を前に信念たる母性は揺らぎ、疑心と怒りをまき散らしながら遂にモンスターとして再び「母」に還る。サスペンス描写は悉く息子を起点とする「運命のいたずら」の演出に費やされ、貫徹される。しかし注目すべきなのは、「運命」を描く上で「いたずら」により登場人物と観客を裏切り続けてきたポン・ジュノが、もっとも予想された、また同時にもっとも望まれない結末を設定していることだ。これも「運命」の一側面だろう。
そして殺人の驚きよりも、運命を受け入れず、記憶(運命の集積)を抹殺してまで「母」であろうとする「信念のグロテスク」を描いたのもまた初めてだ。ラストのバスの車内、揺れるカメラが必死に「踊る母」をとらえる。これは「勝利」なのか。讃歌でも否定でもない奇怪な後味。それでも深い「愛」。巧い。超絶に巧い。
「無常の運命観」を描く潔い軸の太さがポン・ジュノの真骨頂だ。軸さえしっかりしていれば、持ち前の圧倒的な演出力が生きてくる。いや、巧い。相変わらず日本人好みの無常観をエンターテイメントで。どうもごちそうさまでした。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (3 人) | [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。