[コメント] 百万円と苦虫女(2008/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
自分を知っている人が誰もいない土地をランダムに選んで渡り歩き、ほどほどの人付き合いを通して「失われた日常生活」を満喫していた彼女が、3つ目の旅先で恋に落ちてしまう。そこで徐々に安住していくかのように思っていた矢先、パートナーから激しく失望を味わわされる。しかし彼との訣別を決めた彼女は、実家の弟からの「ぼくはいじめから逃げないでここでがんばっている」という手紙を読んで、もし彼女自身が「我が家(安住)に勝るものはなし」と望むのであれば、その我が家は、他人から与えられるのではなく、自分から作らなければならないのだ、と悟るのだ。自分をなくしながら居場所を求めることなど出来ない、どこを探したって自分の居場所は「自分の居る場所」にしかないのだ、と。
多分この物語はそういうメッセージに帰結したのだと思う。彼と駅前ですれ違ってしまう明るい別れも、まずは彼女自身の地歩を固めることが先決だから、「今は会えなくていい」ということなのだと思う。
しかしそう語られるべき物語が、そう語っていないようなちぐはぐさがある。一番の大きな理由は、監督の主人公の描き方にあると思う。この物語は、徹頭徹尾彼女の動機から描かれるべき物語だ。「周囲の陰口や好奇のわずらわしさに我慢できない」、「もう送ることができなくなってしまった日常生活を、ほどほどの人付き合いを通して味わいたい」、「でも本当は自分が本当に安心できる人のところで暮らしたい」。要は彼女の内面を通して語られていくのが適切なのだが、むしろ監督の描き方は、彼女のことを外側から「憧れをもって」描いてばかりいるような印象だ。きままに飛び回り、「人間っていろいろ難しいですね」とちょっぴりひとりごち、人間の男の子に恋してしまい傷つく。まるで人間社会を修行している天使のようだ。ずばり監督は蒼井優ちゃん演じる鈴子に惚れてしまったんではないか? 森山未來を始め「彼女って魅力的」目線で描かれた彼女の姿のほうが結果的に圧倒的に印象に残る。本来なら「所持金が100万円になったら別の土地に移る」というルールに縛られて悩むのは、「でもここを離れたくないな」と思う彼女の側から描かれるはずなのに、それが森山未來の側の心情として描かれているところは、物語のオチのためなのだろうが、視点の倒錯を決定付けたように思える。
100万円たまったら別の場所に移るという設定もあってもなくてもどうでもいいな、とか。そもそも彼女が家を出る原因となった「周囲のわずらわしさ」なんかは、ことの発端から描かないで物語の冒頭からそうしちゃえばいいのにだらだら描いているなあ、とか。そう思いつつも、反目しあっていた弟といよいよ別れる時の、夕方の団地の芝生の上を向こうから歩きながらだんだん仲よくなっていってやがてだんだん小さくなっていくシーンとか、桃農家での石田太郎、佐々木すみ江、笹野高史の縁側での笑っちゃうくらいツボを得た芝居とか、蒼井優ちゃんの数々の魅力的なショットとか。あまりに断片が輝かしくて、まあそうめくじらたてて見るもんじゃないな、とか、最終的にはそんな気分になります。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (7 人) | [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。