[コメント] 時をかける少女(2006/日)
「反復」といっても、それはただ「タイムリープによって『同じ時間』が繰り返される」ということだけを意味しているわけではない。たとえば真琴・千昭・功介のキャッチボールはタイムリープとは無縁なところで執拗に反復される。その反復性は意図的に「同じ構図」を多用することで純粋に視覚的かつ対観客的に強調して示されている。しかしそれらの反復は「正確な反復」ではなく、あくまで「微小な差異を孕んだ反復」として描かれている。その微小な差異の積み重なりによってのっぴきならない事態が引き起こされる、そこにこの物語の面白味があることは云うまでもないが、そもそも「微小な差異を孕んだ反復」とは私たちの日常のことではなかっただろうか。
私たちの日常生活には滅多に大事件など起こらない。私たちは毎日同じような日々を、しかしまったく同じではない日々を、微小な差異を孕んだ反復として生きている。その微小な差異の堆積が(この『時をかける少女』で描かれているように)ある日恋愛に発展するのかもしれないし、命に関わる大事故を招き寄せることになるのかもしれない。
現実の私たちは誰ひとりタイムリープの能力など持っていないし、真琴たちのように「甘酸っぱい青春」を過ごした者ばかりでもないだろう。それにもかかわらずこの映画がどうしようもなく私たちと接点を持ってしまうのは、登場人物たちの日常が細やかに描写されているからというよりも、この映画が「微小な差異を孕んだ反復」としての私たちの日常そのものに他ならないからだ。
しかし、この映画の美点は「微小な差異を孕んだ反復」という私たちの日常の構造を取り出してみせたこと自体ではなく、あくまでそれを「運動」という映画的なるものによって貫き(真琴のタイムリープ時の大ジャンプ、カラオケボックスでのローリング、等々)、反復とそこに潜む微小な差異を視覚的なエンタテインメントとして見せ切ったところにある、ということはやはり銘記しておくべきだろう。
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