[コメント] 白痴(1951/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
かつてこの映画を銀座の並木座で観て以来、何年ぶりかDVD鑑賞してしまいました。
その理由は、クロサワ生誕100年という節目だということもあって、佐藤忠男さんの本を読んで、どうしても再見したくなったということなんですね。
私が学生の頃、一気にドストエフスキーを読みつくした時期がありまして、その影響も実は黒澤明監督のこの作品がきっかけです。
原作はとても文字が多く、セリフも多い。そしてその表現のち密さと奥深さは、やはり映像化することそのものに無理があると言わざるを得ません。とにかくこの作品の登場人物はいずれも哲学的な言葉が好きらしく、その言葉の応酬が作品全体を覆っています。
そういえば、最近『ウッディ・アレンの夢と犯罪』という素晴らしい映画を拝見しましたが、言葉の応酬という意味においては彼の作品にも共通する部分がありますね。もとろんドストエフスキーとウッディ・アレンを同じ視点で解釈するのには無理があるというものでしょうが、いずれもセリフが多い。
しかし、佐藤忠男さんも言われているとおり、この映画で黒澤明監督は、登場人物の表情にあの難解で哲学的なドストエフスキー表現を凝縮させようと挑戦したものと推測されます。
黒澤明監督自身、この映画を振り返って「ドストエフスキーが重くのしかかってきた」と語られているように、原作の理念や哲学を表現(表情)のみで示そうとする果敢な挑戦をこの映画で行ったというのが正論ではないでしょうか。
当時の黒澤明監督は『羅生門』で国際的な評価が確立されようとした時でもあり、しかもホームグラウンドである東宝を離れて、興行などを意識せずに自由な作品を撮るチャンスに恵まれていたと思われます。
そんな心境の中、彼がもともと崇拝するドストエフスキーに挑戦することは、彼のその後の歴史を語る上で貴重で重要なポイントとなるものであったことをほのめかしています。
そして、この映画で印象深いことのもうひとつは、音楽です。早坂文雄さんの心の奥深くにしみわたるような音楽の使い方は、映像表現以上にシビアで刻銘です。
黒澤明監督は『酔いどれ天使』でコントラプンクトという音楽と映像の反比例表現を実践しましたが、彼の作品でことらるごとに音楽が画面から奏でられる作品はほかにありません。しつこいほどの音楽表現。
黒澤明は、ハリウッド映画で音楽が登場人物の心境にあわせてしつこく映像にとりつくことを否定的にとらえていました。良いシーンは音楽がなくても十分観客に伝わるものだ、というのが彼のポリシーです。
そんな彼が、この作品では極度に音楽を多用しているのは、原作を映像だけでは示しきれない限界を示すもので、「重くのしかかる」ドストエフスキーを超越するために使った苦肉の策であったとも考えられます。
それにしてもこの作品の森雅之さんは確かにすばらしい演技です。途中、発狂するシーンの声は見る側の内面奥深くに刃物を突き付けるような恐ろしさを感じました。そして発狂する主人公が見る幻想の中で、橋の上の赤間(三船敏郎)が振り返って去ってゆくところに列車の煙が白くかぶさる映像など、映像だけを見ても価値のある芸術作品ですね。
バブルが崩壊して、内面的に傷を負った多くの人が見るべき芸術のような気がしています。
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