[コメント] ジョゼと虎と魚たち(2003/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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多分それは「視線」に対する違和感なのだと思う。
ラストで「ジョゼの現在」が描かれている一方で、同時に「ツネオの現在」はここでは描かれない。「あれ?」と思いつつも、冒頭を振り返ればこれはあくまでツネオの回想、思い出話だからだと、一瞬腑に落ちる。けど、だとしたらラストの「ジョゼの現在」は、おそらくその回想からはみ出た部分だ。ちなみにこの部分があくまで「ツネオがジョゼの現在を思い描いたもの」だとしたら、間違いなくこの映画嫌いになったと思う。多分それは違うと思うけど。
あえてはみ出てまで「ジョゼの現在」を挿入したかったのは何となく分かる。実を言うと、この映画の中で一番好きなのはまさにこの部分なので、それに対しては文句は全く言うつもりもない。車椅子も使って自分なりに外の世界に適応しつつも、家に帰って焼く魚。相もかわらぬ「切り身」の姿、しかもちんまり一切れ。さまざまな思いが去来して一瞬表情がうつろう。けれど、人を好きになることで初めて知った様々な感情を、まるでそっと箱にでも仕舞い込むかのように、黙々と膳を並べる。彼女はその淋しさを嘆いたり後悔していないということを、独白ではなく微細な表情の移ろいで慎ましく語る。捨てたもんじゃないんだと、個人的にはこのシーンに何とも救われた。やはりこのラストは入れておいて欲しい。
そのジョゼ側の現在が不可欠なものだとしたら、やはりどうしてもツネオの現在がここに欠落していることに、なんとも釣り合いがとれてない印象を受けてしまう。彼女と会って少しでも何か変わったとしても、変わらず表向き要領よく泳いで生きていたとしても、思い出話に耽る姿はもういいから彼女のように今の姿を見せろよ、と言いたくなってしまう。ジョゼも未熟だったし、ツネオも未熟だった。未熟な二人がそれぞれの道を、それぞれなりに歩んでいくことを暗示しながら、結局片方だけしか描かれていないのがどうにも不満。
そもそもこの話の何が不満なのかといえば、「ツネオの回想」という形をとっていることがその全てなのかもしれない。実はこの映画で生理的に好きになれないのは、「逃げた」という部分で苦い涙を流すのではなく、「もう一生会えない、友達にもなれない」というところで、あくまで感傷的に泣き崩れて彼が話を閉じてしまうトコロ。溢れ出る正直な感情で、感傷的に泣き崩れるのはいいのだけど、あくまで彼が語り部なので、なんかジョゼの生身の部分までがセンチメンタルな思い出話に閉じ込められているようで、それがどうしても好きになり切れない原因なんだと思う。もっと未熟な二人を遠くから暖かく見守るような視線で描かれていれば、とても好きな話になったと思う。ツネオというキャラも、決して好きと言えるわけではないけど、どこにでもいそうな等身大な青年だし、そのキャラの一部は実際自分の中のどこかにも存在してると思う。
と、ここまで自分の中にあるモヤモヤを形をするのにもひと苦労して、気付けばなんとも歯切れの悪いことを長々と書いてしまったけど、あらためて自分が物語というものに何を望んでいるのか、自分にとって何が譲れないものなのかを再認識できたような気がした。要は「回想形式」の話は、よっぽど細心の気遣いで描かれてなければ性に合わないということも。
(2005/04/10)
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