[コメント] ウンベルト・D(1952/伊)
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クライマックスの自殺未遂のショットは、エイゼンシュタインみたいなグロテスクな構図だった記憶がずっとあった。観直すとそうでもなかったのだけど、そんな記憶修正ももっともだと思われるほどあの列車はグロテスク、いくらなんでもスピード出し過ぎだろう。インドみたいだ。生きて行く上での剣呑さを見事に画面に定着させている。
これに限らず、画で語るのが徹底されているのが本作の大いなる美点。蟻退治の放水と炎(モノクロ画面に見事に映える)とか、犬に帽子咥えさせる突然の物乞い(他の物乞いの真似をおずおずと始める処に『自転車泥棒』が反復されている)とか、アパートの壁に開けられちゃった穴から覗くショットとか、人物の立ち去った後もその影を追うショット(硝子越しと階段)とか。
その他も、室内だけの展開を飽きさせないよう、細かな工夫が次々と施される。マリア・ピア・カジリオの背中を追ったキャメラの一回転(なんと『雨月物語』より早い)とか、鏡を使ったフェイクとか。それらが厭味にならないのは、それぞれが物語の呼吸に的確に沿っているからだと思わされる。ローアングルもそうで、アパートの廊下のそれが最後の公園で繰り返されるとこれは飼犬目線の低さだったのかと気付かされる。なかでも素晴らしいのは、マリアが椅子に座って初めて泪ぐんでいるのが判る早朝の件の長回し。人知れず(父親の判らない妊娠を)悩んでいるのだった。
カルロ・バティスティのプライド高い造形が萎れてゆくという語りで流れをつくるのがリアルで切実。若々しいマリアとの対照も切実だった。このふたり、助け合おうなんていう余裕など全然なく、別れは切ない。本作がネヲリアリスモの範疇に入れられるのかよく知らないが、敗戦から数年、要領のいい奴が裕福になるんだぜという訴えが、守銭奴の家主から伝わってくる。それはもう、どこでもそういうものなんだろう。
自殺未遂のウンベルトを非難するように逃げて行く(けど、あんまり遠くに行かない)飼犬フライク君に胸打たれる。古来、動物を使った泣かせは汚いとされたものだが、本作はその手の厭らしさを感じさせない。それもやっぱり、訴える切実さがリアルだからだろうと感じる。映画が終わったその後も、宿無しのウンベルトは嫌っていた福祉施設に頼ることはないだろう。なぜ嫌っているって、(映画は謎かけとして隠しているが)そこが飼犬禁止だからに違いないのである。でもそれならどうするのだろう。私はやっぱり犬飼うのは止めよう。
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