★4 | 16ブロック(2006/米=独) | 良心の可視化が問題と言えばそうで、形がなければ語り手の作為が及ばない。もっとも、地縁や血縁が形あるゆえにショートカットとして働いてしまい、スリラーに対して禁欲的な作りにもなっているのだが。 | [投票] |
★4 | 女王陛下の007(1969/英) | ドラえもん(ヤクザのオヤジ)を制御するのではなく、むしろ一方的な恩寵に依拠する話である。この万能感は、禍福の尤もらしさを堕落させる効果を持つが、オッサンの寵愛からウフフなパセティックを引き出そうとする問題意識は、三隅版の『斬る』を思わせる。 | [投票] |
★4 | 大いなる陰謀(2007/米) | レッドフォード研究室からトム事務所を経てアジア内陸の高原へと、苛烈な前線へ近づくにつれて内容は空疎になるという逆転世界でロバートとメリルの縦皺と横皺が交歓する熟年映画の宴。トムは息するだけで面白く、政府要人コラ画像には腹が軋む。 | [投票] |
★4 | セックスと嘘とビデオテープ(1989/米) | スペイダーを鷹揚に造形した点では文系賛歌であり、そのニート生活も観察に価する。彼の造形がどこまで一貫するかという興味があればスリラーにもなろうが、最後に文系賛歌とナレートフィリアを対立させてしまう機序の理解にはしこりが残る。 | [投票] |
★3 | バーディ(1984/米) | ズーフィリアを、最後に着地する人間賛歌の当て馬としか考えていない割り切りが、画面に風情ある痕跡を残している。同衾に精を出すニコラスを動物園のつがいのように眺め、東南アジアには、パロディ寸前のジャンル記号の集積たるを求められる。 | [投票] |
★2 | 星を追う子ども(2011/日) | 肥大化した無意識のナルシシズムが、一人称を避ける自然主義の自我に目覚める。丸裸にされた自意識は、心理の間隙を恐れるかのように、事件の羅列を早漏のような尺で切り取り続ける。 | [投票] |
★3 | スコット・ピルグリムVS.邪悪な元カレ軍団(2010/米=英=カナダ) | 成熟の明るい閉塞感は時への不完全な感応でもある。だとしたら、徳性の指標化によって、ノスタルジックなキッチュから審美的な責任を取り戻したい。 | [投票] |
★3 | 4分間のピアニスト(2006/独) | 属性に由来する性愛を除くと、クリューガーを動機付けるものが薄い。自棄という感情の共有が、最後の最後でかろうじて救いになっていると思う。 | [投票] |
★4 | 新・平家物語(1955/日) | 時折、不安定な衝迫で受け手の不安を誘いながらも、パワハラに対する反応として雷蔵の欲望はよく理解できる作りになっているので、王朝物に仮託した近代化論としては、『山椒大夫』よりも受け入れやすい。 | [投票] |
★3 | トリコロール/青の愛(1993/仏) | 夢想の中にある夫の風景が良き牽引となるように、セットアップから情報の減価償却に配慮があり、臆見するニートライフの観察がねむりの底から引き寄せられる。多淫な音響の意匠もエンタメとして割り切れば不快ではない。 | [投票] |
★3 | 北海ハイジャック(1980/英=米) | 記号化の強度如何でナルシシズムが意味もなく引き出されるという事例であり、ムーアの自己愛の保存を優先した結果、パーキンスの虐待観察劇に終始する。キャラ立ち話としては意味があるものの、スリラーではない。
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★3 | ジャガーノート(1974/英) | 仮装パーティーと隔壁と矜持という究極の形式主義にあって、困窮といかに戯れるのか。リチャード・ハリスは過去の投影に手がかりを求める。 | [投票] |
★3 | 最後の忠臣蔵(2010/日) | よってたかって桜庭ななみの造形を矯正する人倫の広がりは、ひとつのアイデアだと思うし浄化でもあるのだが、この道徳の負荷がしつこさの閾値を超えると田中邦衛親子の存在感が浮き彫りになる。彼らのユーモアがいかに稀少なのかと。 | [投票] |
★4 | コックと泥棒、その妻と愛人(1989/英=仏) | 食べログ炎上必至の横虐は現実感に欠ける。文系賛歌もイヤらしい。リアリズムと語り手の恣意的な欲望を超えた場所にあるものは、中小企業経営者の広蕩たる恣縦が、図解的な舞台装置と劇伴のもたらす明晰さの高みに圧迫される様である。 | [投票] |
★3 | ノウイング(2009/米) | 巨大事故のマクロスケールを人間の局所的な肉体が受け止める。これをひとつのショットとして描画しうる特異な解像度は、また、為す術もなくマンハッタンを俯瞰する距離感の寂寞さでもある。
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★3 | 小説家を見つけたら(2000/英=米) | 無数にある救い手がスリラーの介在する余地を埋めてしまう。また、そうした宿命性が才能を歓待する同調圧力に転じてしまうと、あくまでそれに屈しようとしないファリド・マーリー・エイブラハムの偏執的なヒール振りから目が離せなくなり、哀れを誘われる。 [review] | [投票] |
★4 | ヒッチャー(1986/米) | 出来レースを積極的に開示する心理の謎は前座に過ぎなくて、ルトガーの不可解な造形への興味が、自分だけがルトガーを理解しているという希少性の醸す情熱に取って代わる。あくまでハウエルを立てるという基本に愚直である。 | [投票] |
★4 | 月光の囁き(1999/日) | マルケンに言及する最後のつぐみが好きで、このふたりが会話を交わすシーンは皆無なのだが、彼女の言及の示唆する、受け手の知らぬ彼らの生活の映写幕を超えた広がりが、閉塞感を打開してるように思う。 | [投票] |
★3 | 戦火のナージャ(2010/露) | ナージャの劣化振りが時の残酷さ。方々の造形に宿り引き裂かれた語り手の自己愛が話を散漫にする一方で、愛らしい独人たちの生態が総集編のような時の間隙を埋めて行く。 | [投票] |
★4 | あの子を探して(1999/中国) | 語り手の情熱がリアルの現場で子役を酷使していそうな臨場感をもたらすと、行動に心理が追従する様が、コミットメントを利用した誘導にしか見えなくなってきて恐怖映画化。 | [投票] |