コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 終の信託(2012/日)

『嘔吐』のマロニエではないが、彼岸のコンビナートや検察庁舎の剥き出しの配管群に(シュルレアルならぬ)「過剰現実」とでも名づけたい不穏な生々しさを見る。あるいは中庭を持つ病室にしてもシーンの感情たる反リアリズムのリアルがあって、そのロケ・美術感覚は黒沢清CURE』『』にも通ずる。
3819695

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







後半部のほとんどを占める取調べの場面はおよそ一般的な意味における「映画的」な状況ではないがゆえに、むしろ映画に許されたあらゆる方法を用いてシークェンスの維持が図られている。それはたとえば芝居の彫琢であり、セットの作り込みであり、カメラ・照明の操作であり、また第三者(細田よしひこ)の視線の介入といったものであるだろう。

それでもボクはやってない』もまたそうであったように、周防正行は特定の作中人物に一方的に肩入れをしているように見え、また彼自身がそれを自覚し、公言をさえしているような場合でも、フェアな表現を棄て切ることができない演出家だ。確かに映画は草刈民代役所広司の感情的交流を肯定しているに違いない。だが草刈にある種の独善性がつきまとっていることも否定できない。それが最も顕著なのは、家族の面前であるにもかかわらず役所のいまわの際に草刈が子守唄を歌うという暴挙に出るシーンだろう。同じく抱きついて子守唄を歌うにしても、たとえば仮に役所を独り身であるという設定にするだけで、ここでの草刈の独善は大幅に軽減できたはずだ。そんなことは百も承知であったはずの周防はしかしそれをしない。この喜劇的でもある違和感、観客のフラストレーションを招く作劇の失敗とも見られかねない居心地の悪さは、演出家の能力不足ではなく、おそらくは彼のフェアネスによる(もちろん、家族を登場させなくては「家族の同意」や「リビング・ウィル」といった尊厳死周辺のトピックに触れづらくなる、という事情もあったでしょう)。ただし、そのフェアネスが「面白さ」と幸福な関係を結べるとは必ずしも限らないだろう。

(評価:★3)

投票

このコメントを気に入った人達 (2 人)緑雨[*] けにろん[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。