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[コメント] スーパー!(2010/米)

仮装ヒーローの誕生という荒唐無稽な題材を実に切実ぶって、観客の感情を上下に揺さぶることに関してはよく計算して作劇している。しかし、ありふれた言葉で云えば「狂気」、私なりの語彙を用いれば「真顔感」が足りない。というのは何と比較してか。M・ナイト・シャマランアンブレイカブル』である。
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ここで狂気なり真顔感なりの主体として私が第一に想定しているのは、作中人物ではなくして演出家である。むろんシャマランの真顔にしても演じられたものにすぎないのだが、彼にあって特筆すべきはその真顔を真顔で演じているという点だ。ほくそ笑みながら真顔を装うことがせいぜいのジェームズ・ガンの企みが手に取るように分かってしまう一方、真顔で真顔を演じるシャマランのえげつない真顔感は彼の企みを謎で覆い隠し、映画作品を魅力的に理解不能な彼岸の構造物に変貌させてしまう。

果たしてどちらのほうが優れているのか、私にとっては自明なのだけれども、「そりゃ結局のところ趣味の問題じゃないか」と云われれば強いて反論はしない。「これをシャマランと比較して云々するのがそもそも大いに見当違いなのだ」と語気を強められたら、むしろ積極的に頷いてもよい。しかしながら次の点だけは付け加えておきたい。

ヒーロー(になること)とはレイン・ウィルソンにとって「世の不正義を糺す」ための手段であり、エレン・ペイジにとってはそれ自体が目的のようだ。平凡人の彼らがヒーローを目指すことで起こるあれやこれやは、それが手段や目的でしかない以上、現実生活のシミュレーションの域を出ない。翻って我らが『アンブレイカブル』のブルース・ウィリスは、「悪役が悪役たるためにはヒーローが存在しなければならない」として無理矢理にヒーローに擬せられてしまう。シャマランは端的にフィクションの論理であるそれを真顔のリアリズムで語りきろうとする。さて、映画としての志が高いのはどちらか、という云い方はすでに偏向を含んでいるとして差し控えるにしても、どちらがより無謀な野心に衝き動かされた作であるかは今や明らかだろう。

(評価:★3)

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