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[コメント] 崖の上のポニョ(2008/日)

思わず『恋のエチュード』を想起した、などと堂々と云ってしまうには画面の質感から何から異なる点が多すぎるのだが、ともかく「崖の上の家」というのがよいのだ。このロケーションの特異性。斜面感覚。これが単なる「海辺の家」であったならば、この映画はここまで面白くはならなかったと断言できる。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







さて、「水」と「光」の映画である。水を描くこと、光を描くこと、それはおそらくアニメーションにとって最も困難な試みだろう。もちろんアニメーション史はすでにいくつかの「水」の映画・「光」の映画を持っているだろうし、宮崎駿にしてもそう呼びうる映画を撮っているはずだ。だが、これほど全篇にわたって水と光を描くことのみに命を懸けたアニメーションを、私は寡聞にして知らない。モールス信号による光のコミュニケーション。まばゆく輝くチキンラーメン。「映画」とは、端的に光である。映画に感動することとは、光に感動することとどこまでもイコールである。

あるいは、崖沿いの細道を爆走する軽自動車と魚波の上を全力疾走する少女の「並走」。世界映画史上でも他に類を見ない並走ではないか。その高速の運動中に実現する少年と少女の切り返し=視線の交錯。それは「活劇」と「メロドラマ」の臨界点だ。つまり、これもまた端的に「映画」と云うほかない。

だから、この映画の物語の抽象性が明らかにしているのは、宮崎の原理主義的な態度でしかない。ここで原理主義とは、「映画」の面白さにとって必要なことは美しい水や光、ハラハラドキドキさせる運動が画面に溢れていることだけだ、という思想である。事実「映画」は百十年間にわたってそのようなものとしてありつづけている。したがって『崖の上のポニョ』の狂気とは「映画」そのものの狂気にほかならない。「映画」は常に人間にとって彼岸の存在としてある。『崖の上のポニョ』はその事実を少しばかり丁寧になぞったに過ぎない。

(評価:★4)

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