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[コメント] アマデウス(1984/米)

美術は立派だし撮影も頑張っている。演技にも見応えがある。「天才と凡人」というテーマを語るにあたってモーツァルトとサリエリという歴史的人物を使ってやろうというそもそもの作品意図も興味深い。が、ハッキリ云って面白くはない。決定的に「驚き」が欠如している。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







老いぼれたサリエリ=F・マーレイ・エイブラハムが「モーツァルトを殺した!」と叫び、その彼の回想として映画は始まる。確かに「モーツァルトを殺した!」はサリエリが勝手に云っているだけなのだから「サリエリがモーツァルトを殺した」が(この作品世界における)事実であるかどうかは一旦措かれなければならないのだが、それにしてもモーツァルトが既に死んでいること、それについてサリエリが何らかの形で関わっていること、サリエリが苦悩を抱えたまま老いさらばえている(生き延びている)ことは明らかとなり、この時点で物語の成行きはほとんど決定してしまっている。

このように物語の着地点を決定する回想形式というものは映画にとって諸刃の剣である。というか、失敗に終わることのほうが多い。「映画」の武器は常にそれが現在形たる(=何が起こるか分からない)物語であることなのだが、回想形式においてはその「何が起こるか分からない」状況が生む驚きが予め大幅に低減されてしまうからだ(ですから、回想形式を映画に貢献する形で使いこなすには『市民ケーン』のウェルズ級の天才が要求される、とまでは云いませんが、やはり相応の才能と研究が必要とされるでしょう)。それにもかかわらず、この『アマデウス』は観客と肩を組んで律儀に「成行き」をなぞるばかりで、そこに新たに驚きを惹起させようという演出がない(あるとすれば、それはモーツァルト=トム・ハルスのキャラクタリゼーションくらいでしょうか)。少なくともこの作品を見る限りではフォアマンの演出力に疑問を抱いても無理はないだろう。

フォアマンの演出力の問題、それが端的に現れているのは(これは確かディレクターズ・カット版で追加されたシーンだったと思いますが)ハルスが音楽家庭教師として「犬屋敷」に赴くシーンだ。これだけ犬を登場させても全然面白くならないというのはさすがにいただけない(しっかりと演出力を備えた演出家にかかれば、動物が出てくるシーンはそれだけで面白くなるものなのです。たとえば『リュミエール工場の出口』『荒武者キートン』など)。

むろん俳優から良い演技を引き出し、これだけ長尺の物語を無難に纏め上げる技術は率直に賞賛されるべきだろう。だが、回想形式が映画の面白さにとって致命的な障害となりやすいことにも気づいていないこの監督が、映画ならではの面白さを生み出しえないのは当然でもある。

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と、断言口調で非常にエラソーに述べてきましたが、もちろん以上が「驚き」であるとか「面白さ」であるとかにこだわった、ある意味では非常に偏った意見であることはじゅうぶんに承知しています。ですが、せっかくですのでここで映画における「回想形式」についてもう少し述べてみたいと思います。

前述したように回想形式の特徴は物語の着地点が予め決定されることです。そのために多くの場合「何が起こるか分からない」状況が生む驚きが欠如してしまうことになるのですが、それを回避するには愚考する限りでも少なくともふたつの方法があります。

まずは「物語の着地点を決定しない」ということです。つまり、作中人物が過去の物語を語りはするけれども、その「成行き」に関する情報を観客に与えることはしないで、すべてを謎にしたまま回想シーンに移行するという方法です。この『アマデウス』に即して云えば、サリエリに「モーツァルトを殺した!」などということは云わせず、ただ「年老いたサリエリらしき謎の人物」が「(観客にとっては)誰だかよく分からない相手」におもむろに「過去の出来事と思しき物語」をぼそぼそ語り始める、という形になるでしょう。この場合、たびたび挿入される現在シーンでサリエリがその時々の自分の心情を解説する、ということができなくなりますが、個人的にはそのような「解説」はいっさい不要だと思います。逆に云えば、物語やキャラクタはそのような「解説」抜きでかたちづくられねばならないものだと思います。

回想形式の映画において驚きを生み出すふたつ目の方法は「回想(過去)シーンで無茶苦茶をする」というものです。良くも悪くも物語の着地点は既に決定されてしまっているのだから、回想シーンにおいてたとえ物語を破綻させてしまうほどの無茶苦茶が行われようとも、それは動かしようのない「事実」として認定されざるをえず、物語の収まりは最終的には(自動的に)つくことになります。この方法によれば驚きを生み出すこと、観客を裏切ることはできますが、それが良い裏切りとなるか悪い裏切りとなるかは演出次第でしょう(いずれにせよ、観客と共有する「成行き」を律儀になぞるような語りよりもよほど「映画的」だとは思いますが)。

最後に誤解のないように付け加えておきますと、ここで「驚き」とは何も「物語的な」驚きに限っているわけではありませんし、むしろ私はそれにさほど重きを置いていません。私が真に求める「驚き」とは、あくまで画面それ自体や俳優の所作、カッティングなどが生み出す「瞬間」の驚きのことです(したがって優れた演出家ならば、たとえ回想形式を取ろうが物語が紋切型であろうが、それとは無関係にいくらでも「驚き」を生み出すことができるはずです)。

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