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[コメント] 回路(2001/日)

「黒」に対抗するものとしての「赤」がいまひとつ立ち上がってこないもどかしさ。生きながらにして既に亡霊化している人間達の描写は、作品の主題を貫いてはいるが、彼岸の暗黒との境界が曖昧すぎて、恐怖感を著しく殺ぐ。終盤(=終末)に向かうほどに退屈。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







かなり久々に観たのだが、出だしはやはり、世界観の構築がとても秀逸。船上の麻生が後ろ向きのままで、黒い頭髪だけを見せているのが、劇中の壁の黒ずみや影などといった黒沢的意匠との類似性を感じさせる。壁の黒ずみと、この世から消失された友人とが区別できなくなるシーンの恐怖感は、ラストシーンで麻生が加藤の姿を黒ずみに幻視するシーンでは一抹の切なさや、人肌の温かみへの郷愁となっていて、この辺りは気に入った。だが、麻生の友人・有坂が黒ずみと化し、そのまま黒い粒子となって風に舞うシーンのCGは酷い出来。これなら、セットの部屋で実際に粉を撒き散らして撮ることが出来なかったのかと思うが、或いは、あのCGの空々しささえもが演出意図だったとでも言うつもりなのだろうか。

「黒」を封じ込める為の「赤」いテープの登場が唐突で、何の理由も説明されていないことなどは別に構わない。無限に沈む「黒」に対抗するなら、鮮烈に前面に出てくる色彩としての「赤」だろう、という、視覚的な納得性があるのだから、映画としてはそれで充分。ただ、その「赤」と「黒」の闘いというものが特にこれといって展開するわけでもないので、詰まらないだけだ。終盤での、車から、或いは墜落する飛行機から黒煙が立ち昇る様は、これまた「黒」の侵略劇という主題を貫いている。

一方、麻生が見かける、玄関の扉に赤テープで目張りする女のスカートが赤で、すぐ後に彼女がタンクの上から投身自殺することや、加藤に事態の憶測的説明をする武田が赤い服を着ていること、会社の男たちが次々に消えていく事態を恐れる有坂が、麻生の傍らを赤い服で通って行ったので「あ、彼女消えるんだな」と思ったら実際そうなったこと(その事態に対抗するかのようにいったんは白い服になるが、麻生の眼前で消える時には黒い服、という着替えショーで事態を説明)、いつの間にか白と赤のシャツを着て現われた加藤がやっぱり消失することなど、「赤」は「黒」に対抗しているようでいて、実は「黒」との境界にあるという事態を告げてもいる二重性が面白い、と言えば言える。尤も、全篇で何か色のルールといったものが厳密に貫徹されているわけでもなさそうだが。

それにしても、この映画の何だかバカバカしく白々しいと感じさせられる点は、例えば、麻生の前で有坂が消えるシーンで、麻生はそれを嘆いてはみせるが、観ているこっちにはその喪失感が殆ど痛感されないことだ。黒沢にとっては、人間の絶対的な孤独という事態は最初から折り込み済みかつ当然視されている印象で、登場人物達がそれを恐れおののき、必死で抗おうとする様に一切同情していないように思える。故に、全体的に、あまりにも淡々と全てが進行していく。いよいよ世界が破滅していく終盤では睡魔の手に何度もかかりながら観ることになったのだが、最後に挿入されたCoccoには、悪い意味で目が覚めた。彼女があんなふうに激しく切なく歌うような感情は、黒沢的なものとは無縁な世界に思える。だが、映画の方は、人から人への切ない感情あってこそドラマが成立する世界なのだ。一種、説明的な記号として挿入されたように感じさせられてしまうCocco。これは酷い使い方。

最初から死んでいるような人間たちが実際に黒ずみと化し亡霊と化す様を見せられても仕方がない。一人、何だか活き活きとしている(?)加藤の違和感も、黒沢的な世界に呑み込まれて同化され、後に『ドッペルゲンガー』で発揮する不気味な存在感のようには成功していない。黒沢映画は、普通の人間を予め無化してしまう浸食作用があるのかもしれない。永遠の孤独や無と同義の、永遠の存在性という主題は、小説版を読めば『CURE』と共有し合うものがあるのが理解できる。だが、『回路』は小説版の方も、『CURE』の素晴らしさとはまるで比較にならない出来。そもそも、あの世の容量が足りなくなったから彼岸から死者が此岸を侵略し始める、という発想はいかにもコンピュータとのアナロジーを狙った感じだが、この奇抜な発想は、リアルな恐怖として迫ってこない。死者がこの世に影として現われるのは分かるが、その代わりに生者を亡霊化し消失させてしまっては、結局あの世の容量を減らせないのではないか。むしろ、加藤が小雪に言うように、生者が永遠に生きることになり、この世で永遠の孤独を生きさせられることになってこそ真の恐怖ということになり得るのではないか。不条理で理不尽な事態というのは歓迎するが、意味不明な事態というのは、映画として観る分にも困惑させられる。

麻生らの職場に溢れる植物群は、生きてはいるが静止し沈黙したままであることの亡霊性が効果的。その面では『カリスマ』を思わせる。花がなく緑一色という単一性も狙ったものだろう。

人物が黒ずみと化す喪失シーンの反復によって、亡霊の影に脅える登場人物がフレーム外に姿を「喪失」させるだけでも、再び彼・彼女がフレーム内に復帰できるのかというサスペンスを煽る。ただ、最初からいてもいなくても観客にとっては大して障りがないように感じさせてしまうところが黒沢の詰まらなさではないか。

(評価:★2)

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