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[コメント] シックス・デイ(2000/米)

トータル・リコール』の二番煎じという印象は拭えないが、ポール・バーホーベンの変態性に敵う特異性は無い反面、それなりに「すぐそこの未来」を演出する姿勢は評価したい。記録・複製技術としての映像による、クローンの魂の問題。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







冒頭シークェンスに於いて、鏡の前のアダム(アーノルド・シュワルツェネッガー)は妻に「何か変わったか?」と自身について訊ね、妻の「髭を剃ったわ」に「元々生やしてないよ」、「じゃあ、変わらない」などという遣り取りを交わすが、後に、アダムが髭剃りで傷をつけたことが、本物と複製を見分ける徴として機能することも含め、外形による真贋の曖昧さというテーマが、いきなり提示されている。アダムもまた妻に「君はずっと変わらない」と愛の言葉を口にする。

そう考えれば、先述の鏡にテレビが映し出されるのも、そこに在るものを映す鏡と、勝手に何でも映し出すテレビとの合わせ技という所が意味ありげに見えなくもない。ちょっとした身支度の間も視聴覚的情報に触れていたい、という近未来人の細切れな時間感覚の表れと見てもいいのだが。ウィアー博士(ロバート・デュヴァル)の妻が、何世代も交配を重ねて品種改良した花を夫に見せ「あなたなら30分で出来るわよね」と口にするシーンを思えば、遺伝子工学は、「死」の克服であると同時に「時間」の克服でもあったと言える。神経学的に読み込まれた個人的記憶が、簡単なビデオ機器で巻き戻しされるシーンもまた、テクノロジーによる時間のコントロールが見てとれる。

トータル・リコール』の遺伝子工学バージョン。リモコン操作のヘリによって敵の目を欺いたり、刺客の背後にバーチャル愛人のホログラムを出現させて注意を逸らしたり、アクション演出の中に虚像を取り込むアプローチが『トータル・リコール』を思わせる。バーチャル弁護士やカウンセラー、冷蔵庫のディスプレイなど映像が声をかけてくるシーンもそうだし、不気味なお友だち人形の機械的な愛想のよさも、『トータル・リコール』のタクシーロボットを想起させる。

視力検査の器械のようなもので、視神経から記憶が読み込まれたり、クローンの下瞼に、複製された回数が記録されていたりと、目が大きな要素となるのだが、実際、虚像は、概ね視覚的に捉えられている。アダムが他人の指を用いる指紋照合も、その一つと言っていい。アダムが自らの分身と示し合わせて、記憶が敵に読み取られた際の錯覚を仕掛けておく作戦も、ヘリの後部座席にいる分身の方を見ないようにするという、視覚的なトリック。他人が手っ取り早く盗み見ることの出来る記憶とは、視聴覚的な情報、つまり映画的なものに制約されているということだ。まぁ、ドラッカー(トニー・ゴールドウィン)が、ヘリのガラスに映った分身の姿を見つけることでトリックを見破る展開については、そのガラスの映像はアダムの記憶にあったものなのか?という疑問を生じさせるのだが。記憶の映像というものは、本当はもっと鮮明度にムラのある、曖昧なものの筈なのだが、映像化してしまうと、記憶というより機械的な記録になってしまうわけだ。

時折挿入されるフラッシュバックは、自らをオリジナルと思い込んでいるアダムが実はクローンであることをあまりに示唆しすぎていて、ただでさえベタな真相がより陳腐に見えてしまう。ただ、クローンに違和感を抱いていたアダム、観客がそれなりに感情移入して見守ってきたアダムがクローンだったことは、単なる視聴覚的情報を越えた「魂」の存在を映画的に証明しようとしたとも思える。映画のフィルムも一つの記録、複製の技術なのだ。

(評価:★3)

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