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[コメント] 映画に愛をこめて アメリカの夜(1973/仏=伊)

人間と、人間以外の被写体の気まぐれ、偶発事(アクシデント)との闘いとしての映画。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







夫の父親と道ならぬ関係になるヒロインを演じていた女優が、初老の夫を裏切って、夫役の若い俳優と関係を持ってしまう事。スタントマンを使って自動車事故のシーンを無事撮り終えた後にもたらされる、出演者の自動車事故死の報。映画の中では見所となる出来事も、現実に起こればシャレにならない、という訳だけど、もう一工夫、欲しい所。何も『フランス軍大尉の女』とか『8 1/2』とか『インランド・エンパイア』のようなメタフィクション性などは求めないけれど、何だかトリュフォーが困った顔で頭を掻いてみせる様子を生暖かく見守るしか仕方の無いような映画。

何度もテイクを重ねて、望む画を撮ろうとする苦労は描かれてはいるものの、徐々に映画の中身が向上していく過程が見える訳ではなく、台詞をつっかえずに言ったり、猫がミルクを飲んだり、といった、脚本に書かれた通りの出来事が為されていく「作業」しか見えないから、この「映画作り」の光景に感動を覚えたりは出来ない。劇中で撮影されている映画は、大まかなストーリーだけは提示されるが、その映画内で役者が創造すべきエモーションなり何なりが感じられない。僕には、『蒲田行進曲』や『キネマの天地』のようなベタベタの邦画の方がまだ感動的に思える。

セットの中の暖炉を巡る短い場面は好きだ。「食事の後には何か動く物を見ていたい。昔は暖炉の火を見ていたが、今はテレビを見るんだ」という台詞。セットの火は、スタッフがボンベを閉めたり弛めたりするのに合わせて、強くなったり弱くなったり。映像というものが、単に動く灯り以上のものではないというシニシズム。

だがまた、暖炉の火という自然物を技術的にコントロールする「映画」という儀式の、その皮相さの可笑しさと、造物主の如き偉大な万能。撮影最後の、街に雪を撒く場面や、用意された猫が演技せず、その辺に居た猫がミルクを飲むのを待ち、動き回る猫を追うカメラが、ピントを調節しながら息を殺して撮る場面などに於ける、人間以外の、本来はコントロール不可能なものを、映画という枠の中に収めようとする闘い。この、自然のコントロールという、偶発性との格闘は、スタッフやキャストらの、人間としての感情の混乱との闘いという形でも行なわれる。

その辺の格闘が、真剣かつコミカルな群像劇として以上に描かれていないのが、どうにも食い足りない。軽妙洒脱な物語として観ればそれなりに面白いのだが。

先述した暖炉の場面の他、蝋燭の中を刳り抜いてライトを入れたり、高い場所に書き割として作られたバルコニーなどの、映画の表層性への視覚的な言及が、もっと追求されていれば面白かった筈。「故郷の天候が恋しくて、人工の雨を降らせた俳優」のエピソードの、映画によって現実から遠ざけられた男が、映画的な虚構によってそれを慰める、という逆説性など、この映画の脚本そのものに活かしてほしかった視点だ。

因みに、冒頭にギッシュ姉妹への献辞と共に映し出されるスチールは、二人のデビュー作である『見えざる敵』(D・W・グリフィス監督)。「ジャン・ヴィゴ通り」という看板や、トリュフォーの仕事場に届く夥しい本の表紙に書かれた数々の名監督の名など、ふとした瞬間に於けるオマージュの詩情はやはり美しい。だが僕にとって最も美しいのは、赤いクレーンに乗ったカメラが、この『アメリカの夜』という映画を撮っているカメラと向かい合う瞬間だった。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)けにろん[*]

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