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[コメント] 逢びき(1945/英)

ルイ・リュミエールの『列車の到着』から五十年。逆方向へ一瞬で消え去った列車の不在と、ゆっくり消えていく煙、という余韻による詩的演出へ。また、絶えず発車時刻を意識させる事で、不倫という行為に緊迫感を与える作劇術も見事。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







列車に乗る、乗らないが、愛する人を選ぶか否か、の差し迫った緊迫感を演出する、という手法は、古今の映画で見られるもの。この作品の場合は特に、不倫の恋に走る二人が逢引を重ねる場そのものが駅の喫茶店であるというのが、絶妙だ。すぐ傍にプラットホームがあり、来たるべき出発、別離を意識させる。その一方、喫茶店は、移動の合間に休息し、見知らぬ人たちと一時、時間を共有する場。「プラットホームの傍の喫茶店」という状況そのものが、惰性的な日常に穿たれた特別な時間、という、この映画に於ける不倫のあり方と合致している。

冒頭でまず二人の別離の場面を見せ、そこから時間を遡って、出逢いから逢瀬、別れまでを見せるという編集が巧い。序盤での、お喋りな知人に声をかけられたせいでアレック(トレヴァー・ハワード)との最後の時間をぶち壊しにされてしまったローラ(シリア・ジョンソン)の沈んだ様子を、終盤で観客はもう一度目にする事になるのだが、この時、序盤と比べてよりローラに同情するようになったその気持ちの変化の分、ローラとアレックの逢引に引き込まれていたのだという事になる。加えて、序盤での、ちょっと列車を見に行ったというローラの行動が、実は衝動的に線路に身を投げようとしたのだという、その事実の意外さ、重大さも、序盤と終盤から感じる温度差をより印象付ける。

映画が始まって早々に画面を斜めに突っ切る汽車に、早くもこの物語が別離に終わる事が予感できる。五十年前の『列車の到着』は、列車がこちらに向かって来、画面を覆い尽くすという物量感で観客を圧倒したようだが、この『逢びき』はその正反対。これは、五十年の間に映像が、物の表現から精神的な表現へとより高まった事の、一つの証拠ではないだろうか?

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (1 人)ナム太郎[*]

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