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[コメント] 炎上(1958/日)

三島作品は幾つか読んではいるものの、実は『金閣寺』は未読。だが少なくともこの映画の筋を追った印象としては、「炎上」の必然性が生じるには、以下の要素をもっと観客に印象づける必要があった筈→
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







最も肝心で、かつ最も不充分だったのは、驟閣寺の美。歴史の堆積によって寂びれた外観に、奥深い美が凝っているのが感じられず、ただのボロい寺にしか見えないせいで、焼けても別に痛くも痒くもない。唯一、主人公・溝口が夜に驟閣寺に侵入して、マッチの火で中を照らすシーンでは、闇に輝く、半ば剥がれ落ちた金箔や、仏像の厳かで静謐な存在感が浮き上がるが、焼かれる直前でやっとそうしたシーンが入るというのは、作劇上、あまりに遅すぎる。殆どのシーンでは、暗い画面に驟閣寺の姿が収まっているというだけで、インパクトに欠ける。この点は、「小さいテレビ画面で観てるお前が悪い。スクリーンで観れば、あの黒々とした威容が感じられるんだよ」と言われたら、「へぇ…」と答えるしかないんですが。

またそれとの対比として、その美に眼力が届かない俗人たちが、ただ「国宝」という美名だけを有り難がって、観光資源としてしか見ない様がもっと強調されて然るべきだった。これは大画面じゃなくても分かりますよ。いや、確かに色々と表現しているのは見える。米兵たちが驟閣寺の前にジープを止めてワイワイ言いながら降りてくる場面や、パン助らしき女が米兵と言い争って逃げ、驟閣寺に入ろうとする場面、住職が拝観料を稼いでどうとかいう会話や、驟閣寺の安っぽいイラスト入りのチラシ、取り調べの刑事たちが、金を積んでも取り戻せない国宝を焼くとは何事だ、と溝口を批難した舌の根も乾かぬうちに、再建したら幾らかかるかと話す台詞。だけど、驟閣寺が映るショットには観光客も俗物どもも大して介入しないので、高貴なるものが汚される危機感がいま一つ伝わってこない。芝居の面白みはあっても、主題についての説得力の無い映像。

更には、溝口が驟閣寺を心の安らぐ場所として愛し抜いている描写が足りない。パン助が驟閣寺に入ろうとするのを必死で止めるシーンや、うっとりと驟閣寺を眺めるショットなど、外からの表現は一応はあるものの、驟閣寺の中でのシーンで記憶に残るのは、彼が床を丁寧に拭いている姿のみ(それとの対比と言うべきか、皆が住み込んでいる寺の床が拭き掃除されている所を、足跡をつけてドカドカと歩く場面がある)。このシーン、本来であれば溝口が驟閣寺を愛撫するかのような艶めかしさなり、厳かなるものに触れることへの畏れなりが伝わってきて然るべきなのだが、ただ掃除しているという状況しか感じられない。

溝口の父と住職の姿が、俗臭や欲望から離れた庇護者としてオーバーラップし、だがそれが住職の世俗性の露呈によって徐々に崩れゆくプロセスは、驟閣寺への放火という結末を導く一つの大きな原因である筈なのだが、中村鴈治郎の飄々とした存在感は、何もしていなくても最初からどこかユーモラスで、驟閣寺が最初から高貴な建物に見えないのと同様、溝口の幻滅、そして完全に幻想が崩壊する前に自らの手で葬り去る、という流れが全く見えてこない(この流れは恐らく、原作者である三島の「週刊誌天皇制」への反感と、自衛隊への決起の訴えという破れかぶれともとれるパフォーマンスを経ての自決、という最期とも重なるものがある筈なのだが)。

溝口が母親から「あんたなんか生まなければよかった」と言い切られた直後、住職に、跡取り息子が生まれたという報せが入るシーンや、「自分のような吃りが後を継いで住職に選ばれるわけがない」という自己否定のせいで、住職の慈悲の深さを試すような行動に駆り立てられ、そのせいで「お前に後を継がせる気持ちは無くなった」と宣告される所など、互いに幾重にも絡み合い響き合う場面の構成は見事だが、これはやはり三島の手腕なのだろうか。東京者の友人と、寺の境内から、この世のものと思えぬ美女を見つけるシーンや、すました女の偽善の仮面を剥がす為に自らの身体障害を逆手に取る男など、美への率直さと屈折のない交ぜになった感情が見える辺りが面白い。

炎上シーンでの、輝く無数の火の粉が舞い踊るショットの美しさはインパクトがあるが、視覚的なインパクト以上の象徴性なり何なりを見出すのは難しい。この監督の作品はあまり観ていないけど(たまに観ても今回のように失望させられるので)、少なくとも今回のこの題材に関して言えば、人物に寄りすぎであり、建物、風景、事物に無言の内に何かを語らせる演出力が完全に欠けているのが致命的。人が行動したり会話することのないショットはサッサと切り替えられ、殆ど捨てショットの扱いだ。この無関心さはもう、映像表現に於ける詩情というものを解している人とは思えない。芸達者な役者たちの丁々発止のやりとりを観る楽しみだけは堪能できて満足だけど、題材の未消化感は否めない。

学生服の市川雷蔵は、元は青白い文学青年だった若き三島にそっくりで、薄気味悪いほど。

(評価:★3)

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