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[コメント] サッド ヴァケイション(2007/日)

だが、この爽やかさ、明朗さが、嫌だ。この嫌さは、<母>の冷酷な包容力ではなく、映画のミニチュア的な作り物感に由来する。肝心な所を伝えきってサーガを閉じたかったのか、終盤、台詞が妙に説明的。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







EUREKA』では沈黙ゆえに存在感のあった宮崎あおいが、ただの脇役に収まってしまって残念。とは言え、浅野忠信が、壊して出て行こうとした“家”に、自分が新しく獲得した妻子共々呑み込まれる男の役割を果たしていたとすれば、それと対照的に宮崎は、二人の男たちに捜し出されてなお、彼女が得た居場所にはそのまま置いてもらえている。浅野が、母という女を‘発見’(EUREKA?)するのに対し、宮崎は男たちに発見される立場。女は、自分の居場所に動かずに居られる存在。男は、浅野に「お前も男だろう」と嗾けられて出て行く、運送会社の一人息子のように、或いは、映画の末尾でヤクザに引っ張り出されそうになっているオダギリジョーや、あの中国人の少年の如く、一箇所に落ち着けない存在として描かれている。その意味で、運送会社が舞台というのも頷ける。

最後に、シャボン玉が炸裂して男たちの頭上に雨を降りそそぎ、女たちが笑う。劇中での雨の場面を思い起こせば、雨の中、浅野が、運送会社の前に車を停めて、母を睨みつけるように居る場面や、雨に打たれた浅野が、異父弟を追い出す場面などが思い出される。このラストシーンは、上述したような男女の構図を象徴する場面だと言えるのかも知れない。男にとっては悲惨な状況も、女たちは平然と笑っていられるのだ。<母>は、かつて居た人や今居る人ではなく、これから生まれる人の事だけを考えていられるのだから、つまりは、その場に居ながらにして更新され得る存在なのだ。母となり得ない男は、その場から動いていく事で、更新を試みる。永遠のいたちごっこ。浅野の母が「家」の連続性を云々するのは、血を繋いでいく事で更新を行なう存在=<母>として、だ。

だが、そうした複雑かつ濃い関係性を描こうとしている筈のこの映画、その割には、妙に人物が類型的で、体臭のしない印象。何だか全てが観念止まりな感じがし、隔靴掻痒とはこの事か、と。

(評価:★3)

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