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[コメント] ラ・ジュテ(1962/仏)

各カットは静止画だが、所謂「写真」ではない。映画的時間に置かれた静止画が、映画のショットとしてどう機能するのかを見せてくれる。SF的設定もまた、「時間」と「映像」の関係性という主題を際立たせる。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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本作と比較すれば、むしろ動画で撮られた『ゼラチンシルバーLOVE』の方がやはりスライドショー的だ。個々のショットの自立性がより強いという意味で。

映画は絶えず流れ続ける時間の内に在る。本作の場合、個々のカットは静止画であることで、現れると同時に「過去」となる。時間の流れと並行して動く画ではないからだ。それ故に、過去の時間に遡行するという物語のプロットと表現形式とが一致する。主人公が時間旅行の実験体として選ばれまた成功するのは、その想像力、少年期に目撃した映像への執着心によるものだが、観客もまた、ナレーションに従って個々の静止画を想像力で補うことを強いられる。それは実は、通常の形式の映画を観ている際にも観客が行なっていることでもある。カットとカットの繋ぎを、脳内で補完しているのだから。

個々のカットが「過去」であることは、第三次世界大戦による世界の崩壊という設定、つまり観客である僕らの知る世界が「過去」として設定されていることとも一致する。主人公が女とデートする場所が、動物の剥製が展示された博物館であるのも、生ける者の去った廃墟、過去となった世界、という世界観を補完する。僕はノアの方舟のことを想起させられた。

だからこそ、主人公が執着していた女の目覚めのシーンで、最後のカットが彼女の動画となる瞬間には、鮮烈な印象を受ける。寝床で女が身動きする姿を、慈しむように捉えたカットの連続。女の、ほんの些細な姿勢の変化をも、一つ一つのカットとして捉え、それがディゾルヴで繋がれることで、既に擬似的な「動き」が生じていたシーンの最後に、遂に本物の動きが現れる。主人公にとってこの女こそが、唯一の「生きられた現在」だったのだ。

この唯一の動画で女は、目を開いてこちらを(おそらくは主人公を)見つめてくる。「眼差し」という主題で本作を振り返れば、まず大戦の「勝利者」が、望遠鏡のようなものを両眼に付けた眼鏡をしている。このことで彼らは、遠くを見通す存在として映じ、ひいては、彼らが事態を支配する存在であることが理解できる。また、彼らの実験体となる者たちは、安眠マスクのような目隠しをされている。視覚を遮蔽されることで、彼らが被支配者であることが、画として一目瞭然となるわけだ。主人公が未来に赴くシーンでは、彼はサングラスをしている。主人公は、「過去」に執着している男だった。故に、「未来」は本来見る筈のないものであり、関わり合いのないものなのだ。

ラスト・シークェンスでは、主人公はサングラスを着けて「過去」の空港に現れる。そこに、彼を抹殺しに来た「勝利者」の望遠鏡状の眼鏡。三つの時代が交錯することによる倒錯性が、「女の居る空港」という、主人公にとっての「生きられた現在」を破壊する。ここでもまた、画そのものが事態を雄弁に語っている。一見するとナレーションが全てを説明しているように感じられるが、語られる物語は単に、映像そのものが既に語っている世界観を補強するものでしかないのだ。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (2 人)赤い戦車[*] [*]

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