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[コメント] 戦争のはらわた(1977/独=英)

人の心はディマケイション。真に笑うべきは己の中にある愚かさと知れ。
たわば

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







シュタイナーはカッコいい。いや、カッコよすぎて何か違和感を感じる。一方シュトランスキーはカッコ悪い。いや、カッコ悪すぎてむしろ変だ。

それはまず二人の登場シーンに顕著に現れている。シュタイナーは映画冒頭で敵の陣地を襲撃しこれを殲滅、空になった弾倉を投げ捨てるスローモーションがしびれるくらいカッコいい。一方サイドカーに乗って登場するシュトランスキーは、いきなり立ちションするというカッコ悪さ。続いて曹長に昇進してもまったく喜ばないシュタイナーと勲章が欲しくてしょうがないシュトランスキー、ここで彼ら二人の人としての器の違いが鮮明になる。さらにシュタイナーは勇敢に戦い名誉の負傷で頭に大怪我をすれば、シュトランスキーは臆病に壕に残り額に負ったかすり傷で叙勲申請する恥知らず。ついでに空の弾倉を投げるシュタイナーのスローモーションの場面は、ラストで空の弾倉を外し再装てんできないシュトランスキーの場面に対比しており、二人は相反する合わせ鏡のような存在として演出されていることがわかる。

物語はこの二人を対立軸に展開するが、合わせ鏡な演出は彼らだけにとどまらなかった。シュタイナーの上官であるマイヤー少尉はシュタイナーからも信頼されるが、戦場で勇敢に戦って戦死する。それに対しシュトランスキーの部下であるトリービヒ少尉は保身のためには同胞をも撃ち殺す卑劣な男で、味方であるシュタイナーに蜂の巣にされ処刑される。さらに序盤で出てきたロシアの少年兵は捕虜として捕まり、シュトランスキーに殺されそうになるが解放、しかし味方に撃ち殺される。それに対しラストで出てくるロシアの少年兵はシュトランスキーを殺そうとするが弾切れで断念するが、死なずにいる。このように、この映画には数多くの合わせ鏡な演出が溢れており、映画の構造とともに映画の主題も「合わせ鏡」であることは間違いない。

仲間を大切にするシュタイナーと、自分の欲望のために人を操るシュトランスキー。(名前も似てる)映画のラストで二人は絶望的な状況に立たされるが、それでも彼らが死ぬ描写はない。ということは映画の文法的に見れば彼らはまだ生き残っていると考えられる。エンドロールに聞こえるシュタイナーの「Oh,shit!」発言は、彼の健在の証明であり、なおかつシュトランスキーもしぶとく生き残った事に対する反応だったと思われる。ではなぜ二人は死なないかというと、おそらく彼らは人間の心に存在する相反する感情が具現化したものだったのではなかろうか。人間とは、シュタイナーのように何者にも屈しない強い心とシュトランスキーのように欲に負けてしまう弱い心を併せ持つ存在であり、それらはどちらかを完全に打ち消すことのない「合わせ鏡」のように存在し続ける。映画ではそんな人間の相反する二つの心を提示することで、観る者自身の心の中にある愚かさを笑え!と訴えたかったのではないかと解釈した。

またこの映画で注目すべき点として、登場人物がみな何かしら鉄の道具を持っているという演出も見逃せない。軍人は銃という鉄の道具を使い、少年兵はハーモニカを、女看護師は鉄製のペンライトでシュタイナーを照らしていた。そして原題に「iron」とくれば、登場人物全員が鉄を持つことに何らかの意味があるはず。鉄は使い道次第で人を殺す武器にもなれば、人の心を癒す音楽にも人々を照らす光にもなるものだ。仮に人間の心も鉄だと考えれば、子供たちの心はまだ完全に固まる前の鉄のようなものと言えるだろう。そう考えると子供たちの心とは無垢な鉱石のようなものであり、それをいかによりよい形に導くかは大人の責任である。オープニングとエンドロールに流れる子供たちの映像は、そんな子供たちの心を戦争という溶鉱炉で歪んだ鉄にしてはならない、というペキンパーの思いのように感じられた。

この映画が作られたのは77年。75年にアメリカのベトナム戦争が終わり、ソ連のアフガニスタンの侵攻が始まるのは79年。いわば二つの大きな戦争の中間、すなわち境界線の年に作られたのは偶然だろうか。この映画は戦争映画のジャンルという境界線を飛び越えたカリスマ性があり、映画の歴史の中にある一つの神話と呼ぶにふさわしい作品なのかもしれない。私にはこの映画を今は亡き父親と一緒に観に行ってしまったという黒歴史(チンコ食いちぎられる場面を父と見る気まずさと言ったら・・・)があり、そんな思い出とともに生涯忘れることのない大好きな映画である。

以下は「合わせ鏡」の演出で気づいたものを列挙したので興味ある方はどうぞ。

冒頭でシュタイナーの小隊がロシアの陣地に静かに近づく水平運動と、中盤で音もなく橋を襲う垂直運動の対比。 サイドカーでやってくるシュトランスキー大尉と、サイドカーで去ってゆくキーゼル大尉。 クリューガーとケアンの豪快なキスシーンと、トリービヒと伝令兵のねっとりした愛撫?の対比。 ウサギを絞めて食うシュタイナーの小隊と、ネズミをペットにしてるシュトランスキーの動物対比。 宿舎でシラミをとるシュタイナーの部下たちと、ロシアの女兵士の宿舎の机にむらがるハエの虫対比。 病院に横たわるシュタイナーを看病する女看護師の場面と、ロシアの女兵士の宿舎で横たわる女兵士を看取るシュタイナーの対比。 病院で野菜を貪り食う患者たちの場面と、ロシアの女兵士たちになぶり殺しにあうツォルとの対比。 病院の池で泳ぐ金魚の赤と、泥水に広がってゆく兵士の赤い血の対比。 病院にたんかで運ばれ看護師に迎えられる負傷兵と、戦場でトラックに轢かれたまま放置されてる兵士の死体。 ついでにツォルが男根を噛み切られる場面と、病院で傷病兵が将軍に手のない腕を差し出す場面。どちらも棒のような肉体を相手に触らせている点で一致。

映画冒頭の流れと映画終盤の流れの一致。冒頭「シュタイナーが弾倉を投げ捨てるスローモーション→少年兵発見→シュトランスキーがサイドカーで登場→大佐とキーゼル大尉の場面→シュトランスキーは横転したトラックの横でシュタイナーと対面し少年兵を射殺せよと命令、しかし実行されず→解放された少年が味方に撃ち殺される」続いて終盤「クライマックスでシュタイナーの部下とトリービヒがそれぞれ味方に撃ち殺される→大佐とキーゼル大尉の場面でキーゼルがサイドカーで退場→シュトランスキーは横転した貨車の横で少年兵に撃たれそうになるが弾切れで命拾い→空の弾倉を捨てるが再装てんできないシュトランスキー」このように冒頭と終盤の一連の流れは鏡のように反転して作られているのがわかる。

暴力性とドラマ性、そしてスローモーションを駆使したダイナミックなキラーショット満載(笑)の映像美と芸の細かい演出がクロスしたこの作品こそ間違いなく鉄十字章ものの映画であり、ペキンパーはこの映画でアメリカ映画の境界線を越えた。

追記:

以下、合わせ鏡の演出でさらに思いついたものを追加します。

戦車はなんだろうと考えたら、これはマイヤー少尉が死ぬ戦闘シーンでロシア兵との白兵戦との対比だったことがわかった。白兵戦では武器すら持たずに飛びかかってくるロシア兵もいたが、これは戦車という最強の兵器との真逆対比だったと言える。ついでに白兵戦ではドイツ側が勝ち、戦車との戦いではロシア側が勝利している。

次に取り残されたシュタイナーたちが女兵士の服を着てロシア兵に偽装し敵の陣地を通ろうとする場面はなんだったのか考えてみた。あれはブーツのせいで偽装が見破られていたが、ブーツといえばシュトランスキーがトリービヒの恋人?の伝令兵にブーツを脱がせ磨かせてる時に彼らが同性愛だと見破る場面に対比していることがわかった。

・・・自分が指摘しておいてなんだけど、この映画には無意味な場面が一つもないのに改めて驚かされた。この作品におけるペキンパーの病的とすら思えてくる徹底した完璧主義っぷりは、もはや鋼鉄の域に達している。(2011.11.12)

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (6 人)KEI[*] mal Orpheus ジョー・チップ[*] けにろん[*] 赤い戦車[*]

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