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[コメント] 奇跡の丘(1964/伊)

真のマルキストは「奇跡」に関する映画ではなく、奇跡の集積としての「映画」を志向する。二つのショットを不連続に接合することへの、飽くなき自己批判もしくは仮借なき異議申立て。
ゴルゴ十三

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「映画」なるものを自明視することは「映画の文法」を映像言語のロゴス足り得るものとして承認することに他ならない。そんなブルジョア的身振りと無縁であり続けたのが、ネオ・レアリスモの影響から脱した中期以降のパゾリーニの道程である。

フィルムの物質性にその正当性を依存する、異なるショットの不連続な接合。その集積としての「映画」。あまりにも単純であったため顧みられなかった初歩的な前提から彼は取り掛かる。いかにこの認識をなおざりにする自称シネアストの多いことか。彼/彼女らは「映画」を積極的に規定するのは資本であることを忘却しているのだ(もしくはそのように装うのだ)。

このような積極的忘却とそれがもたらす映像言語の見かけ上の豊かさに「虚飾」の二文字を塗りつけるべく、パゾリーニはショット間の異質性を暴きつつも祝福するというアクロバティックな蛮行を断行する。この確信犯的な「不能」さの開陳。

してみると本作の原作として聖書を選択したことが俄かに重要性を帯びてくることに気づく。彼は「奇跡」を映画を通して表現したかったわけではなく、「映画」という奇跡のあり方を独自の明晰さを持って提示したかったのだ。この正しく前衛的な企図が集約されているのが、かの有名なイエスが病の男を癒す「奇跡」の場面である。独自の白々しさを漂わせながら、あっけらかんと提示される二つの短い切り替えしの連続。この正当化はここでは明らかに宣言と遂行が言葉において一致するイエスの「奇跡」の引用に拠っているが、裏を返せば全てのショットの切り替えしが奇跡的になされるということである。この成功が以後の「不能」を方法論として採用し、「映画の文法」を解体・再構成する一大事業の先駆けになったことは言うまでもない。

(評価:★5)

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