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[コメント] ノー・マンズ・ランド(2001/伊=英=ベルギー=仏=スロベニア)

???疑問多数。
Kavalier

見終えたばかりだが、疑問がかなりあるので少しダラダラと書いてみよう。

まずセルビア軍という呼称はオカシイ。 作中で呼称されていた「セルビア軍」は「ユーゴスラヴィア連邦軍」であり、隊内にはセルビア人以外の民族の兵士も多数存在した。 セルビア軍という呼称を使用していたのは、西ヨーロッパ諸国とアメリカと日本の報道機関である。

当時の内戦において、ボスニア側(つまりムスリム人)が求めていた、国連の介入とは、NATOによるセルビア側への大規模な一斉空爆である。しかし、介入した国連が主に行ったのは、対話による平和解決の志向と、NATOをけん制しセルビア側への空爆を阻止したこと。それが故に、内戦中は、「ムスリム人は空爆を阻止する国連を批判」し、「セルビア人は国連をある程度尊重」するという状況が起こった。後に、国連の承認を得ないままに、NATOは大規模な空爆を実行する(ここでNATOが空爆の正当化の為に喧伝したのが「無力な国連」である)。 映画内では、国連は何もしない傍観者として描かれ、作中に登場する指揮官は、女連れで前線に現れるといった描き方は、事実とそぐわない。前線に従事した経験があるムスリム人の監督からすれば、国連は傍観者に見えただろうが、それを処理能力を失っている組織として、一方的としか思えない視点の元、内部にまで踏み込んで描くのは、オカシイを超えて非常に作為的ではないか。 だいたい、この問題にはこの映画は非常に巧妙で、「何もしない機関」として国連を描きながら、具体的に何をすべきかには明言しない(まさか「爆撃すべきだ!」とは描けないだろう、そのすり替えが巧妙だ)。

欧米のメディアは、当初からボスニア側しか取材しなかったと指摘されていたが、この映画でも、作中の中盤で集合するメディアはすべてボスニア側へと集まっている。これは、メディアがボスニア側に付いて、なおかつ軽薄な報道を行なったという皮肉なのか?(そもそもこの映画が、西側による資産で製作されている)

兵士達による問答でどちらの勢力が戦争を仕掛けたのかを序盤で不問にしながら側、「(ボスニア地区において)独立を行なおうとするムスリム人」vs「阻止するために介入したセルビア人」という構図が作中では存在するが、ボスニア地区には、セルビア人も多数(というか、セルビア人のほうが多かった記憶があるが、これはちょっと度忘れ)いたので、このような構図を作り出すのは、奇妙である。この構図は、欧米のメディアが使用した構図であり、当時国内ではもっと複雑だったはず。面倒なのでここでは書かないが、会戦前にユーゴスラヴィア政府(この映画ではセルビア人勢力として描かれている)は、ムスリム人の独立を認める用意すら存在した。

映画は、局地的な状況に内戦の(一時的な)大局を縮図化させている、その縮図化された物は、ボスニア側からの視点に非常に偏向している(としか思えない)。正直、見ていてムスリム・西側諸国によるプロパガンダ映画としか感じられなかった。例えば、「民族浄化」という言葉がさり気なく、しかし客観性を示すためにニュースの映像として使用されていることであったり、製作国にスロベニアがあり、公式HPによるとスロベニアでロケが行なわれたらしいが、この内戦前に、スロベニアはユーゴスラヴィアとの紛争の後に独立を行なっており、今でも、両国間の関係は非常に険悪な状態であること、ストーンズのシャツは、西側が援助しているのはボスニア側であるとでもいいたいのだろうか。その他、爆弾を仕掛けた兵士が、セルビア側であり、彼の人格はあまり良く描かれていない(同性愛者のような描写まで挿入している)。 そうして縮図化された物によって、感情レベルでの戦争否定へと還元なされてしまうのは、グウの音も出ない。

フィクションにおいて同時代性がある題材を扱った時にやらねばならない事は、一方的な視点から、アイロニカルな悲劇を描くことで、観客に忌避感情を与えることではない。非情なまでの冷徹な視点により拾い上げた事実の積み重ねから、その作品なりの何がしかの真実を、受け取り手に提示することだ。 ドキュメンタリーな側面からの作品の誠実度では、オリバー・ストーン以下だろう。

ドキュメンタルな題材においては、作り手は公平性を観客に向けてどれだけ標榜できるか、観客は逆に作り手の偏向をどれだけ見つけ出すか、という鬼ごっこルールを、双方忘れてはならない。

(評価:★2)

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このコメントを気に入った人達 (3 人)死ぬまでシネマ[*] kiona[*] uyo[*]

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