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[コメント] 告発の行方(1988/米)

サラとケネスが検事補の部屋で向き合うシーン――引くに引けない者同士がやむにやまれず向き合わされるシーンというのは、それだけで涙が出る。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

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生まれも良くなければ、育ちも良くない。親とは離ればなれで、決定的な悩み事を打ち明ける仲でさえなくなっている。時給幾らのウェイトレスで日銭を稼ぎ、今にも崩れ落ちそうなあばら屋で将来もへったくれもない生活を送っている。同棲中の彼氏なんか結局は体が欲しくて自分と付き合っているような、思いやりのない、実にくだらない男で、信頼できるのは犬一匹と安物のヘッドフォンのみ。

人が人を束縛している生活環境――現実と言い換えてもいい――から抜け出すというのは、そんなに簡単なことではない。あまたの人が「そこ」に甘んじ、打ちひしがれながら、やりきれない人生を耐え忍ぶのみだ、ただ、ささやかな楽しみを糧に。同じように底辺で日常に辟易しながらも何とかやり過ごしていたサラにとって、そのささやかな楽しみが、場末の飲み屋でほんの一時チヤホヤされることだったとして、責められる謂われがあるだろうか?

また、そうであればこそ、件のレイプシーンは痛烈の極みだ。サラは、しがない日常から離れて一時夢舞台に立っているつもりに過ぎなかった。ちんけ極まる舞台だが、スポットライトを浴びて酔いしれることはできた。だが、周りの男どもは、誰一人そんな風に考えちゃいなかった。レイプ自体が凄惨であることは言うにも及ばないが、それ以前に、誰一人、サラという人間を一人の人間として、一個の生活者として見ようとしなかったことは、何にも勝る悲劇ではないか?

此処でも、他所でも、「阿婆擦れ」等の言葉を散見した。劇中で、サラ自身が自身をそう評していた節があったことに鑑みても無理からぬことと思うものの、一方でサラは自分の表層的な世間体を客観的にそう述べただけであって、本心は自分のことを「阿婆擦れ」だなんて一度たりとも思わなかったはずだ。思っていなかったからこそ、鬼畜どもに対し、また鬼畜どもを許容しかねない世間に対し、自分自身の尊厳を証明する必要があった。

サラが「阿婆擦れ」だとは、一切思わない。傷つく弱さと純粋さと、怒り、闘う強さと情熱と――とても魅力的な女性だ。

何故、件の回想シーンがあんな後半に持ってこられたのか? また、唯一罪悪感を抱いていたケネスにより語られたのか? サラという一人の人間の一個の生活を見せた上で、事件を見て欲しかったから、また唯一ケネスがサラを一人の人間として認識していたからに他ならない。

その上で、ケネスにも一個の立場を与えて描いたこと、またサラとケネスが一対一で向き合う場面を用意したことは、賞賛に値する。サラはもちろん引けない一線のためにそこにいたが、ケネスも自分の立場に懊悩しながらそこにいた。正義をとるか、それとも自分の共同体における現実的な事情をとるか、リアルに想像すれば、このシーンの意味は変わるはずだ。

(評価:★5)

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