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[コメント] TAKESHIS’(2005/日)

たけしも胡蝶の夢を見るか?
kiona

もう何年前の話になるか、たけしが雑誌のインタビューで自身の「胡蝶の夢」感について語っていた。曰く「ある朝、ふと目覚めると、この成功が全部夢だったと気づく――そんな状況を想像するんだ」そんなようなことを語っていた。それまで俺は押井とかとかあと押井守とかを見ていたので、その言葉が妙に印象に残っている。あるいは北野武が『紅い眼鏡』や『マルホランド・ドライブ』や『ルル・オンザ・ブリッジ』や『12モンキーズ』のような映画を撮ったとしても、うまく撮れないとか想ったりした。だって、実はそういう映画こそ裏では徹底的に理詰めになっている(『マルホ』なんか特にそう)のに、この人の映画は理詰めじゃないし、設定はやくざしかできないし。

……で、それから数年後、平板に理詰めされた、それでもやくざネタのこの映画が出てきた。話を聞いたとき、個人的にはまったくサプライズなんてものはなく、ああ、あの時言ってたからやっぱりやったんだなって感じだった。

ここからはあくまで個人的な感想なんだけど、この映画はどこまで言ってもパーソナルな代物であって、世間を描くみたいな俯瞰はまったく無いと思う。だって、やくざだし。この人は自分で才能を自覚していて、成功しちゃう自分に陶酔している一方で、世間からは決して見えない卑屈な自覚は持ち続けていて、この映画はえてして一番素に近いんじゃないか。

前半がだるい一因として「ビートたけし」の方がディフォルメされて見えるっていう、見ようによっては致命的な欠陥がある。我々が現実に見ているビートたけし像の奥行きはあんなもんじゃない、それを見る側は知っているから全部、嘘くさい悪ふざけにしか見えないんだよな。でも一方で、存在しないはずの「北野武」の方までもっと嘘くさく見えるかって言うと、これが不思議とそんなこともなく、むしろあの卑屈なオッサンの方がリアルに感じられる。それを北野武の本質と言い切る勇気は無いけれども。

そもそもこんな話に付き合わなきゃならんほど北野武は巨像かというと、そこにまず身も蓋も無い問題があって、たとえこの人どれほど顔が知られていたって、人気があったって、彼は長嶋茂雄ではない。このネタが世間に対して普遍的に成立するほど北野武はでかくない。吉本に対して浅草、メジャー映画に対してまるで自主映画、常にカウンターとしてのし上がる、メジャーを食っちまうマイナーが彼の本質だとすれば、映画の中のビートたけしが現実の彼に遠くて当然だ。たとえばこのネタが成立するのは、長島とか、力道山とか、ロッキーになった夢を見るスタローンとか、王道を行ったスターでないと成立しないんではないか、と。

彼の作品は、ベネツィアやカンヌに招待されたって、とどのつまりオモチャのピストルをバンバンやる映画だ。でも映画はオモチャに見えちゃ駄目だから、リアリズムを追求してあれこれやるわけだけれども、誤解を恐れずに言うならば、それは体裁に過ぎないのであって、そもそも圧倒的多数の映画作家も、あるいは映画ファンも、夢(妄想)の中でピストルバンバンやりて〜! と思って、オモチャのピストル撃つところから始まって、たとえリアリズムの服着込んでも、本質はオモチャのピストル撃ちまくる衝動と快感にあるのだと思う。

この映画の後半が好きなのは、うんざりするほど最初から最後までオモチャでしかなかったピストルの乱射が、ある瞬間を突き抜けたとき、オモチャのままでありながら、確かな衝動と快感に変わるからだ。抑制も制御も欠いた後半の暴走はみすぼらしく滑稽だが、マズルフラッシュを星座に衝天させるシーンのド間抜けさ加減と例のブルーを背景に少年の蹴ったサッカーボールが新体操のボールに昇華される珠玉のスペクタクルが混在するこの何とも言えない感覚、かっこつけたと思ったら次のカットでは貶められるリアルな夢の感覚は、やっぱり自分が好きな北野武だったと思う。

(評価:★4)

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このコメントを気に入った人達 (6 人)赤い戦車[*] hk[*] おーい粗茶[*] ペペロンチーノ[*] 甘崎庵[*] uyo

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