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[コメント] CASSHERN(2004/日)

惜しむらくは、PVの域を一切出ていない。往年の特撮やアニメに比べ作家が致命的に幼い。しかし、この痛さはどうにも他人事ではないし、好きで一生懸命造ったのは伝わってきた。
kiona

多くの方がご指摘の通り、樋口絵コンテのシークエンス以外は見られたもんではない。ただ、その中に、この監督の資質を凝縮しているワンカットがある。それは手刀のカットであり、問題はそのカットの鉄也の視線だ。普通に考えれば、手刀を振るう瞬間の主体の視線は手刀を振るう対象に向けられるはずだが、鉄也の視線はそうではない。もう一つ考えられるとすれば、切り裂く対象越しに睨みつけるべき更なる敵がいたのか。そうだとしたら、鉄也の独壇場たるシークエンスのコンティニュティを崩さないよう細心の注意を払いながらも、手刀のカットの直前または直後に(鉄也が眼前を越して視線を向けるべき)ブライのカットを挿入する必要があったはずだが、それもない。このカットはプロモのそれだ。視線の先にあるものではなく、ただ視線を映したいがためのカット。モチーフを語るための映像ではなく、ただ格好つけるための映像。それはPVと映画の、そしてこの監督とスクリーンの間に横たわる大きな隔たりと言える。

類型と呼ぶのも憚られる記号的な主要人物たち、書き割りに等しいその他大勢。何故これほど人がいないように感じられるのか? いったいどれだけ狭い世界なのか?

50年代に暗黒のスクリーンで暴れた特撮映画を苗床として、60年代にブラウン管で産声を上げたヒーローもの。混迷の記憶も生々しい時代にあって、製作者たちは戦争の痛みと空しさを知りながら、それでも正義を謳い戦うヒーローを追求した。作品と製品の間で揺れる苦悩も無いわけがなかった。平和のために暴力を行使する矛盾とはとっくの昔に向き合った上で、戦いをやめられない人間の性と浮かばれない者たちを、それでも戦わざるをえない現実があるということを哀しみを込めてさらりと描いていた。あくまでジャンルものとしての節度をわきまえた上で。それがプロの仕事だった。

やがて時は移り変わり、造り手の世代も交代する。往年のものを見て育ってきた世代が造る側に回る。そもそも彼らがブラウン管のこちら側にいた折、彼らが作り手の背景を全て汲み取ることなどできようはずもなかった。あるいは、ジャンルの成立過程など知ったこっちゃなかった。挙句の果てに、毎週毎週繰り返されるヒーローの殺戮に対し、何ともイノセントな疑問を抱くようになる。敵を倒すことが正しいの? 何故戦わねばならないの? 正義って何? ――あたかも、それが新しく深遠な問いであると同時に指標であるかのごとく。そして、経験も記憶も無いことへのコンプレックスを隠すように、観念と理屈を捏ね繰り回しては、お定まりの結論に辿り着く、進歩史観にも似た盲信をもって。結果、生み出される世界は箱庭、無論、大勢は存在しえない。

90年代に溢れかえったその手の作品をこの21世紀に追いながら、紀里谷は、その衒いの無さにかけて、なお傑出している。ラストのラッシュ、厚顔無恥の極みに赤面しながら、一方でこの痛さは他人事ではないと思った。同じ道を歩んできた。おんなじことを考えてきた。そして、どこまでいっても所詮「戦争を知らずに生まれた」という点で、それでもヒーローを信じたいという点で同族なのだ。

ウルトラセブン』を観直すところから始めようぜ!

(評価:★3)

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