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[コメント] 火垂るの墓(1988/日)

家族を失うことが当たり前だった時代。食べる物もろくに与えられなかった時代。それを嫌がるのは、わがままで自分勝手だと非難された時代。そうした時代を振り返るために、この映画はある。
空イグアナ

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







何か違うのである。「清太は自分勝手だ。」「我慢して、おばさんの家に留まっていればよかったのだ。」という意見のことだ。

シネスケというのは、たくさんのコメンテーターの感想が、並列して記されている場所である。そこが普通の掲示板と違う、よいところだ。つまり「あなたの意見は間違っていますよ。」「いや、それはあなたの方が間違っています。」というやりとりでは”ない”ところがよいのだ。討論会ではなく、図書館みたいな場所だ。だから僕はできるだけ、他のレビューへの反論は慎みたいと思っている。でも、この映画はちょっと書かせていただこう。

なるほど、映画として評価するなら、ストーリーはあまりよいとは言えない。「何が何でもこの兄妹を不幸にしろ。飢え死にさせろ。そうすれば観客は泣くぞ。」という作り手の意図が読み取れてしまうので、いま一つの感動できない。

しかし「二人が死んだのは戦争のせいではない。清太が自分勝手だからだ。我慢して、おばさんの家に留まっていればよかったのだ。」という意見は、何か違うなあと思う。『はだしのゲン』を読んで「原爆はともかく、それ以前からゲンの家族が不幸だったのは、戦争のせいじゃない。悪いのは頑固に戦争反対を叫んでいた父親だ。戦争はもちろん悪だが、あんな声高々に叫ばなくても、彼がもっとおとなしくしていれば、家族は不幸にならずにすんだのだ。」と言うのと同じくらい、違うと思うのだ。

はだしのゲン』で問題なのは、父親の頑固さではない。彼のように戦争に反対する者は、非国民と言われ、周りから白い目で見られる、こうした当時の社会風潮こそが問題なのだ。

火垂るの墓』も同じだ。清太は、おばさんの家で、食事も満足に与えられなかった。今だったら、こんなことが考えられるだろうか?育ての親が、子供にろくに食事も与えない。もしそんなことがあったら、虐待だと言われて問題になっているはずだ。

だが当時はそれが当たり前だった。戦争だからだ。「欲しがりません、勝つまでは」である。それができない清太のような子供は悪者だったのだ。

もちろん他の家の子供は、そうした環境の中でも我慢していただろう。それができなかった清太は、人一倍わがままと言えるかもしれない。けれども、今、僕たちがこの映画を観て考えるべきなのは、子供にろくに食事も与えられなかった、当時の社会環境ではないのか。

「どこに滋養なんかあるって言うんですか!」

医者に向かって叫ぶ清太の怒り。確かにおばさんの家を出なければ、とりあえず生き延びられるだけの滋養は得られた。満足は得られなくても、死ぬようなことにはならなかったはずだ。しかし当時の食糧事情が、今から見たら信じられないような悲惨なものであったことも確かなのだ。そして医者も次々と来る患者に、さっちゃんを助ける余裕もなかったのだ。

もし現在、家出した少年がのたれ死にしたら、どう言われるだろう?ワイドショーで報じられ、必ず出てくる言葉はこうだ。

「どうして周りはそれを防げなかったのでしょうか。」

これはたとえ、家出した少年がとんでもない悪ガキであったとしても、出てくる言葉だ。両親は善良な人間で、家出の原因は少年のわがままであったとしても、「どうして防げなかったのでしょうか。」とコメントされるはずだ。

馬鹿馬鹿しく聞こえる知れない。「本人が勝手に家出したんだから、悪いのは本人だ。」そう言う人もいるだろう。しかしそう言っていられるのは、他人事だからだ。 目の前に、飢え死にしかかっている人間がいたら、誰だって放ってはおけないだろう。

これが今の社会だ。たとえ本人が悪かったのだとしても最悪の事態は避けようとする。それが現在の考え方なのだ。

まして家出の原因が、親にあったら?ろくに食事を与えられていなかったからだったら?

確かに人は、自分の言動について責任を持つべきだ。(ついでに言うと,ワイドショーのコメントを,馬鹿馬鹿しいと思うことは、僕もよくある)しかし何でもかんでも本人に責任を負わせればよいわけではない。

「就職する気もない奴は、飢え死にすればいい。」「ドラッグやってる奴は、中毒になって死んでも仕方がない。」「売春ばかりやってる奴は、病気になって死んでも仕方がない。」

これらは一見正論であるが、それで済ませないのが、今の社会だ。

僕は困っているとき、仲間が助けてくれると、やっぱり安心する。誰だってそういう経験はあるあずだ。逆にそういうときに手をさしのべてくれない人には、「冷たい奴だ。」と腹を立てたりする。最悪の事態を避けようとする社会とはつまり、いざというとき助けてもらえるということだ。たとえ選択を誤って堕落したとしても、生き抜いていけるし、またやり直せるということだ。(だからといって、平気で悪い道に走れと言っているわけではない。当然ながら)

今、僕たちは、恵まれた社会に生きている。色々と社会問題は絶えないが、それでも一応、子供はきちんと食べ物が与えられ、学校へ通うことができる。病気や怪我の時には、病院で手当を受けられる。職業選択の自由もある。老後も保障されている。

長い歴史の中で、過ちを反省しながら社会を築いてきたから、今がある。

(評価:★3)

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このコメントを気に入った人達 (4 人)ダリア[*] sawa:38[*] 荒馬大介[*] けにろん[*]

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