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[コメント] ランボー 最後の戦場(2008/米=独)

スタローン映画に満点つけるとは思わなかった。
てれぐのしす

「おれってさあ!こんなにかっこいいからスターになったのにさあ!どうしてみんなおれのえいがをパロディにしたりしてバカにするんだろうなあ」

なんて言うお粗末な葛藤を繰り返してスタローンはハリウッドで生きて来たんだろうなあって思ってたのだが、この映画でその見解を改めることにする。

スタローンは本当は朴訥な映画好きであり、映画を愛し、映画の魔法を信じ、エドガー・アラン・ポー原作作品の映画化を胸に秘めながらも、自分を世に出したキャラクターであり、世間が求めるスタローン像に応え続けて来たのだ。

世間が求めるスタローン像、それは「わかりやすい正義」である。

正義とは何か?悪とは何か?という命題を「難しくする」のは今や「簡単」である。どんな正義の味方でも煩悩はあるし、どんな極悪非道の輩でも愛する家族がいるなんて構図はもはや当たり前なのである。しかし、どちらに感情移入するかを「観るものに委ねる」というのは、本来表現者としては無責任である。

「俺はこういう考えとこういう考えをお前に問いかけるから、どっちを選ぶかはお前の自由である」っていうのは、一見ユーザーフレンドリーな感じもしないでもないが、結局そこには「表現者としての自分」が存在しない後出しジャンケンってことになる。もちろんキューブリックみたいな別格はともかくとして、誰もがやっていい手法では本来ないのだ。

それに対してスタローンは「俺はこう思うんだ!お前がそれを気に入らなかったらすまん!さよなら!」と、断言してしまう。言い切ってしまうのだ。

「無駄に生きるか、何かのために死ぬか、お前が決めろ」と言うのは、単に選択肢を与えているのではなく、まず自分の立場を明確にした上で、相手に賛同するか否かを問うているのだ。それが殺戮であろうと負け戦であろうと、彼は「そう決めた」のである。

ならば敵であるミャンマー軍の描写を徹底的に凶悪化するのは正しい。残虐に撃ちまくって屍の山を築くのも。ランボーは「決めた」のだ。そこにバランスと言う名の欺瞞など存在しない。そもそも信念とは他者の非難をも浴びる覚悟の末に生まれるのだから、バランスだなんてちゃんちゃらおかしい。

ランボー(=スタローン)は、僕の腕を強引に掴んで財布から金を取って映画館に連れ込んだわけでもない。「僕が決めた」のだ。

(評価:★5)

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