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[コメント] ユメノ銀河(1997/日)

これは「映画」だ。間違いなく「映画」だ。「映画」にしかできない表現。
ina

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







この作品は「映画」だ。

傑作中の傑作、最高レベルの表現をを一言で言うときその作品の表現そのものを言うことがある。

例えば「歌」。普通のいい歌は「情景が浮かぶ」「凄いテクニック」「歌唱力が素晴らしい」と言うがマリア・カラス、美空ひばりなどを聞くと「歌」そのものと言う。文学でも「いい話」「主人公の気持ちが良くわかる」「情景がリアルだ」と言うのは普通のいい作品だが、三島、谷崎、ヘッセ、太宰などこれは「文学」そのものとしか言えないときがある。映画でもゴダール、カラックス、タルコフスキーの作品を観るとこれは「映画」だとしか言えない瞬間がある。どんなに言葉に置き換えても無意味でそのものとしか言えない悲しいことがある。蓮実さんがどんなに小津を言葉で解体しても小津の映画は最終的には「映画だ」としかいえないように。(私はこの蓮実さんの評論は大好きでこの玉砕を玉砕にいたる過程としてみると面白い。本人は解体に成功していると思っているが。)「ああ〜映画だ。」「うわ!歌そのものだ。」「これぞ文学。」私は本当に感動したときそのものしか言葉に出ない。

わたしはこの作品を観て最初に出た言葉は

「映画だ」。

いきなりラストシーンから話すが、この映画の映画的興奮の頂点の部分である。 主人公の女車掌は恋人である運転手とバスで踏み切りをわたる。主人公は恋人が連続殺人鬼ではないかと疑っている。バスの中には乗客はだれもいず二人だけ。この踏切の前に主人公は運転手に「わたしは全部知っているんだから」とついに彼に言う。彼は「ひどいな・・。」と言って黙って運転する。二人の間には沈黙と緊張感が漂う。夜の雨の音がよりその静けさと空気の重さをあらわしている。時代設定はたぶん昭和初期か大正でこの時代のバスは踏み切り前で外に出て汽車を確認するのが通例だった。今日はこの様な二人の間と外は雨で時間も遅いので運転手は大丈夫だと言ってバスを進める。運転手は右、主人公は左を見ながらゆっくりと進む。彼女は遠くを見つめている。そこで遠くに光が点滅する。彼女のアップ。スローモションになる。汽車の光。運転手の横顔、汽車の接近に気づいてない。彼女の目のアップ。全てスローモーション。全てモノクロ。

美しい!「映画」だ。

このシーンの結末はここでは書かないがこのシーンこそこの映画のもっとも「映画」らしい所である。

このシーンを映画技術的に分析したらありがちな演出だろう。カットバック、スローモーション、絞り開放で背景ぼかす、移動撮影により俳優のバックがゆっくり流れる。アフレコのため余分な音がない無音状態、静かに美しい音楽と音響。しかしこの技術的に分析することに意味があるだろうか。まったく無意味だ。また物語、心理の終着、頂点だと言ってもこのシーンにはどうでもいいのだ。スローモーションの彼女の顔だけなのだ。そこには「リアル」なんてものはない。

「映画だ!」「映画!」「映画!」「映画!」

この私の心の動揺を言葉にする方法は一つ、

「そのもの」=「映画」と言うしかない。

この作品はまさしく「映画」だ。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (6 人)ちわわ KEI[*] ことは[*] かっきー モモ★ラッチ ガブリエルアン・カットグラ

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