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[コメント] ∀ガンダム I 地球光(2001/日)

富野版『ガンダム』は20年来のファン。このテレビシリーズはとっても好きだったんだけど…
甘崎庵

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 今を遡ること20年前、社会現象まで引き起こした『機動戦士ガンダム』を作り上げた富野由悠季監督は、その続編を徹底的に否定した。「ガンダムはもう作らない」と事ある毎に吹聴し、更に自ら描いた小説版「機動戦士ガンダム」では主人公のアムロを殺しさえもした。

 それから時が過ぎ、何故か監督はこれまでに二本のテレビシリーズ、そして二本の劇場版『ガンダム』を作り上げていたりする(笑)…出来そのものはとりあえず置いておくとして、時代の要望を受けざるを得ないクリエーターの姿がそこにはあったわけだ。

 そして本作のテレビシリーズは監督自らが「完結編」と銘打って作り上げた、(恐らく)監督による最後のガンダムとなった(と、思う)。まあ、監督の手を離れて『ガンダムSEED』なるものが始まってもいるけど…(私は数話観て、どうにも耐えられなくなって観てないけど)

 それだけにテレビシリーズの監督の気合いの入り方は半端じゃなく、「今まで公開された全てのガンダムを含めて終わらせる」と燃えていた。モビルスーツのデザインも一新され、『ブレード・ランナー』の世界観を作り上げたシド=ミードデザインによる全く新しいガンダムの姿を見せていた(ヒゲのガンダムの姿をデザイン画で最初に見た時はちょっとクラッと来たのは確かだが)。  ガンダムの成功以来、ここに至るまで監督の描くガンダムの世界観は随分形を変えてきた。これは時代に合わせて、と言うのではなく、監督の考えがまとまってきた課程だったのではないかと思う。

 近年の監督作品を見ると、「責任感」というキー・ワードで言い表せると思う。人に対する、正義に対する、そして自分の地位に対する責任感がどんどん明確になってきており、本作はその最高峰に位置する。

 ここに登場するのは主人公のガンダム乗りのロランではなく、月の女王であるディアナ。彼女はカリスマとしての存在であり、その存在自体が象徴となる。そして彼女は自らその重みに耐えることを自分の人生として選択していた。

 それに対し、彼女にそっくりな地球の市井の娘キエルは遊び半分でディアナと服を取り替えてみたところ、ディアナと勘違いされて月の女王の役を担わねばならなくなる。月と地球の関係において、もの凄い重責ながら、持ち前のバランス感覚を駆使し、市民としての地球の言い分と月から移住を希望するその言い分を見事に調和させていく。恐らく自分でも信じられない事だったのだろうが、責任感が彼女を変えていく。

 そしてキエルの身代わりになったディアナは否応なく市井に埋もれるが、ここで彼女は一般の人間の責任というものを知ることになる。押さえつけられた義務としての責任ではなく、自ら進んで役を担うという意味での責任を。

 テレビ・シリーズでのこの辺りの話はとても好き。と言うか、「何でこんなの考えられる?」とか、「うわー、うわーっ」とか(笑)、感心しっぱなしだった。ファーストを別格とすれば、多くのガンダムシリーズ中、最高の完成度を持った作品だと私は主張したい。

 だから、この劇場版は後半よりむしろ前半のこちら側を期待していたのだが…

 どうした?これがあんたの主張なのか?

 ディアナとキエルとの身代わりの話はほんの僅かしかなく、ホワイトドール(ガンダム)の話だけが細切れで長々と続く。唯一まとまりのあった話は核爆弾の話だけ。これは確かに重要な話なのかも知れないけど、もっと大切な、書くべき部分があっただろうに。

 ガンダムの魅力を出すつもりなら、それは後半で充分出せる。だからこそ前半は人間の方を中心に作って欲しかったなあ。

 本来作品が持っていた一番の魅力の部分をわざと回避するなんて本当に勿体ない。作品の出来は良いんだ。もっと焦点を絞って欲しかった。 

(評価:★3)

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