[コメント] 刺青(1966/日)
これでは背中の女郎蜘蛛が勿体ない。
フェチズムとは精神世界にこそあるべきもので、肉欲やその後の射精感は単に付帯する「おまけ・ご褒美」であって、それが目的ではない。
山本学演じる彫物師は、そこのところは良く理解して「いい目」をして女郎蜘蛛を見ていた。けっして長襦袢の中に手を入れるなどの無粋な真似はしなかった。
それに対し、お艶に心を奪われる男たちはどうだ?彼等は背中の女郎蜘蛛に心を奪われたのではない。気風が良く、器量良しのお艶に惚れたのだ。
お艶は堅気の娘の頃から気風が良く、悪女ぶりも発揮していた。背中に刺青を背負うが背負わなかろうが、その行動に大きな変化は見受けられない。
刺青:女にとって二度と堅気に戻ることが出来ない十字架を背負った娘。
この劇的な設定がまったく蔑ろにされている。娘は刺青で劇的な変化をするでもなく、男たちは刺青の蜘蛛に絡め獲られていく訳でもない。極論を言えば、この物語に「刺青」がなくとも成立してしまうのだ。
若尾文子の美しさは否定しようがないが、男たちは若尾ではなく、女郎蜘蛛に倒錯の扉を開けるべきだったのではないか?地位も名誉もある男たちがアノ女郎蜘蛛の前に全てを投げ打ってひれ伏す。妖しく気高い女郎蜘蛛の笑みに男たちは懇願し、そして精気を奪われていく。
刺青を扱うのなら刺青の持つ妖しい精神世界に踏み込んで欲しかった。谷崎潤一郎が醸し出す倒錯の、そして禁断の世界を表現すべきであろう。
これでは背中の女郎蜘蛛が勿体ない。
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