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[コメント] カリスマ(1999/日)

おおげさで危険な罠に痙攣する笑い
minoru

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







「カリスマ」と呼ばれる木に向かう中曽根たちの台詞。

「おおげさだね」

「危険な動物に出くわすこともあるからね」

「いるんでしょ。このへんに」

まさにこの映画のことではないか。

「おおげさ」で「危険」な映画だと映画自身が告白している。

「おおげさ」という台詞は、この映画を「思想」や「哲学」や「寓話」といった 「映画」以外のものとして見られることをあらかじめ宣言しているかのようだ。 この映画の凄さは、それを悲観するのではなくむしろその宣言を楽しんでいること。 タチの悪い毒キノコを食べた後のようにその「おおげさ」を笑いはじめていること。

「危険」なのは、この映画を「おおげさ」なものとして納得したつもりになることではなく、 単に「映画」であるということを発見すること。 その危険に「出くわして」しまうこと。

「おおげさだね」

「危険な映画に出くわす事もあるからね」

「いるんでしょ。このへんに」

「映画」を見ているつもりが、それが自分の思い浮かべる「映画」と違った時、 人は「映画」以外のものに翻訳(「詩的な」「哲学的な」「文学的な」が接頭句)するか、 それもかなわぬ時は「わけがわからない」を常套句として用意する。 その常套句を「危険」と気づかぬ者には、もっとわけのわからぬ常套句である 「映画なのにエンターテイメントでないのはケシカラン」という怒りのポーズさえ用意されている。 この素晴らしき「自由」

桐山の台詞の通り「自由は一種の病気」が正しいと仮定すれば、 映画を「自由」に語ることも結局「私は病気だ」と告白することと変わりはしない。 しかし私が「病気」なら、せめて自分の「病名」が知りたい。 だからこの文章は「病状」の告白かもしれない。 いやそうに違いない。 そんな「危険」はどこにでもある。

ではこの映画に用意された「危険」とは何だろう。

この映画にはいたるところに罠(トラップ)が仕掛けられている。 たやすく「解釈」を誘う罠としての台詞。 「法則」「問題」「生きる力と殺す力」等々の台詞が「解釈」を誘っている。 しかし見る者がそんな罠に足を取られそうになると決まって唐突な「暴力」があらわれる。 ピストルでライフルで日本刀でハンマーでスコップで。 圧縮空気さえも暴力のための道具になる。 ありとあらゆる「暴力」が準備された映画。 画面のなかで嫌が応でも目立つ「火」を準備しながら(燃える車、暖炉、燃える木、そしてラストシーン) 「火」が事件の始まりと終わりであることをこの映画は隠そうともしない。

薮池 が2度目の罠に足を咬まれても平然としていたように、 不条理な「暴力」に生きる彼は、もはやどんな「罠」にも驚きはしない。 「罠」のない世界を望むのではなく「罠」があることは承知で「罠」におおげさに驚いたりしないこと。 そう、驚かない事。 主人公はどんなことにも驚かない。

この映画はどんな「解釈」をされようとも驚かない。 そして、自ら毒キノコを食べはじめる。 その後に待ち受ける表情筋の「痙攣」がたとえ「笑い」に似ていたとしてもだ。

傑作。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (5 人)DSCH 浅草12階の幽霊[*] カズ山さん[*] Ryu-Zen[*] 太陽と戦慄

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